バッハと音楽についての道草日記

~気になる音楽、ドラマ、書籍、雑誌等についての雑記帳~

ヘンデルのイタリア修行-その3-

2009-09-22 20:18:38 | ヘンデル

ヘンデルがローマに到着したのは、1706年12月か1707年1月とされています。
最初に滞在したのは、パンフィーリ枢機卿の邸であったようです。
パンフィーリ枢機卿は、教皇インノケンチウス十世を大おじにもち、美術や音楽を保護し、コレッリ、フランチェスコ・ガスパリーニ、ボノンチーニ兄弟などを雇い、日曜日毎に演奏会を開き、また、自らもオラトリオの台本やカンタータの詩を作っていました。前回の記事で紹介したCD、パンフィーリ作詞の器楽伴奏付きカンタータ「愛の妄想」(HWV99)は、ヘンデルがパンフィーリ邸に滞在し始めた1707年1月か2月頃の作品と考えられています。
パンフィーリは、自らの台本によるオラトリオ「時と悟りの勝利」(HWV46a)を1707年5月頃にヘンデルに依頼しています。この曲の初演の場所、日時は不明ですが、パンフィーリ枢機卿の邸またはオットボーニ枢機卿のカンチェッレリーア宮殿で初演されたとも言われています。この曲のリハーサルで、コンサート・マスターのコレッリは激しいフランス風序曲が理解出来ず、ヘンデルはイタリア風の序曲に置き換えたとされています。
また、パンフィーリ枢機卿はヘンデルを賛美するカンタータの詩を書いて、ヘンデルに作曲させています(「ヘンデルよ、私のミューズは」(HWV117))。(続く)。
(出典:三澤寿喜著「ヘンデル」、音楽之友社、2007年)


イタリア語カンタータ「愛の狂乱」他

2009-09-21 21:46:32 | ヘンデル

Scan10399ローマでのヘンデルの最初の保護者は、ベネデット・パンフィーリ枢機卿(1653-1730)で、詩人として才能があった人物のようです。パンフィーリ枢機卿はヘンデルに、最初のオラトリオ「時と悟りの勝利」やカンタータ「愛の狂乱」(HWV.99)の詞を提供しています。
Virginから、『ヘンデル:イタリアン語カンタータ「愛の狂乱」他』(TOCE55786)が出ています(ソプラノ:ナタリー・デセイ、指揮&ハープシコード:エマニュエル・アイム、演奏:ル・コンセール・ダストレ)(録音:2005年6-8月、フランス)。
①「愛の狂乱」(HWV.99)/
②「アーチ、ガラテーア、ポリフェーモ」(HWV.72)から
  アリア「ここでは小鳥が喜ばしげに木から木に飛び回り」/
③「心が躍る」(HWV.132b)/
の3曲です。
「愛の狂乱」(HWV.99)は非常に魅力的で、愛らしいカンタータです。オーボエの旋律が楽しく、何回も聴きたくなります。後期の作品といってもいいような感じです。
「アーチ、ガラテーア、ポリフェーモ」(HWV.72)はイタリア語のカンタータで最も長いもので、1708年6月にナポリを訪問した時に作曲されています。


やっと休暇....

2009-09-19 22:00:00 | ヘンデル
今年もバタバタとしていたら、もう9月といった感じです。やっと休暇らしきものが取れそうです。今年は、バッハよりヘンデルを多く聴いてみました。ヘンデルのワンパターンと思えるオペラも、じっくり聴いてみると段々彼の世界に引き込まれていきます。人間そのものを生き生きと描いた作風はバッハとは正反対のようにも思えますが、ヘンデルがバッハと同様の立場(カントル)になっていれば、おそらくバッハにも劣らない教会カンタータを作曲したに違いないと強く確信しています。ずーっとヘンデルを聞いて、ふとバッハを聴くと、今まで気付かなかったバッハの奥深さを改めて感じます。






ヘンデルの「イタリアン・カンタータ集(第2巻)」

2009-09-12 21:03:34 | ヘンデル

Scan10398 GLOSSAのヘンデル:イタリアン・カンタータ集Vol.2「Le Cantate per il Marchese Ruspoli」です(指揮&チェンバロ:ファビオ・ポニッツォーニ、演奏:アンサンブル・リゾンナ)(録音:2005年8月、イタリア)。ソプラノはエマヌエラ・ガッリとロベルタ・インヴェルニッツィです。


収録曲は、1707年にローマで作曲された、
①カンタータ「捨てられたアルミーダ」(HWV.105)/
②カンタータ「女猟師ディアナ」(HWV.79)/
③カンタータ「お前は誠実か、お前は貞節か」(HWV.171)/
④カンタータ「ひっそりと静かな夜」(HWV.142)/
⑤カンタータ「恋する魂は」(HWV.173)
の5曲です。
いずれの曲も魅力ある素敵なカンタータです


ヘンデルのイタリア修行-その2-

2009-09-06 21:30:42 | ヘンデル

ヘンデルが留学した頃のイタリアは、貧富の差が大きく、孤児や乞食が溢れており、一部の裕福な貴族や枢機卿が進んで芸術を保護し、優秀な音楽家を雇い私邸で演奏会を開き、音楽文化を支えていました。ローマでのヘンデルの保護者は四人いたようで、カルロ・コロンナ枢機卿、ベネデット・パンフィーリ枢機卿、ピエトロ・オットボーニ枢機卿、フランチェスコ・マリア・ルスポリ侯爵(のちに公爵)です。この中で後3者のパンフィーリ枢機卿、オットボーニ枢機卿、ルスポリ侯爵らは「アッカデミア・デッラルカディア」(以下「アルカディア」)の会員でした。イタリアには「アッカデミア」と呼ばれる様々な文化団体がありましたが、「アルカディア」は1690年に創設された文学的な活動をしていた「アルカディア」です。この団体はイタリアの詩を簡素で自然なものに戻すことを目指していたようで、そこでは音楽が重要な役割を果たしており、そこで作られた詩は多くは世俗カンタータとして音楽付けされ、演奏されることを目的とされていました。各会員が輪番制によりホストを務め、私邸で集会を開いていたようです。音楽家はこの団体には入会は認められませんでしたが、例外的にアルカンジェロ・コレッリ、ベルナルド・パスクィーニ、A・スカルラッティはオットボーニ枢機卿の紹介で、1706年に入会しています。ヘンデルは入会を許されなかったようです。音楽家は、カンタータ以外にも、時折大規模なセレナータやオラトリオの上演も邸内で行っていましたが、当時のローマでは教皇令により娯楽性の高いオペラの上演は禁止されていました。ヘンデルもイタリア滞在中に百曲近くの世俗的なカンタータと二つのオラトリオを作曲していますが、これらの曲は以上の状況から生まれています(続く)。
(出典:三澤寿喜著「ヘンデル」、音楽之友社、2007年)