GLOSSAから、ヘンデルがイタリア滞在中に作曲されたカンタータを全曲録音する企画が出ています。指揮&チェンバロがファビオ・ポニッツォーニ、演奏はアンサンブル・リゾンナです。左のCDは第1巻「Le Cantate per il Cardinal Pamphili」で、1706-1707年に作曲された、「炎の中で」(HWV.170)、「フィッリの夜の思い」(HWV.134)、「あの宿命の日から(愛の妄想)」(HWV.99)、「高貴な望みの子」(HWV.113)(録音:2005年10月、イタリア)が収録されており、ソプラノはロベルタ・インヴェルニッツィです。
いずれの曲もミニ・オペラ風で、既にイタリア時代にその後の素晴らしいオペラ群の殆どの基礎が出来上がっているように感じます。魅力ある素敵なカンタータです。恐るべし若き日のヘンデル!。
ヘンデルはバッハとは違い音楽一家ではなく、いつ何処でどのように音楽を修行してきたのかは非常に興味深いものがあります。勿論、天賦の才能(突然変異!?)ですが、イタリアでの修行時代がもっとも彼の将来を決定したようです。三澤寿喜著「ヘンデル」(音楽之友社、2007年)を参考にさせて頂き、イタリアでのヘンデルの活動について簡単に触れたいと思います。
イタリア時代は1706-1710年ですが、彼はイタリアの前にはハンブルグに滞在しています(1703-1706年)。ハンブルグは宮廷を持たない自由都市で、その当時、宮廷以外でオペラを上演する国民オペラが盛んでした。その中心人物がカイザーという人物で、彼からオペラについて大きな影響を受け、ヘンデル初のオペラ「アルミーラ」もこの時に作曲しています。
当時、ハンブルグには多くの著明人が集まっており、ヘンデルはイタリアのメディチ家のフェルディナンド(1663-1713)と知り合っています(フェルディナンドの弟のジャン・ガストーネであったとういう説もあるようです)。フェルディナンドの父は、トスカナの君主、大公コジモ三世ですが、二人の息子(フェルディナンドとジャン・ガストーネ)にも、また大公の弟のフランチェスコにも世継ぎがなく、500年にわたるこの名門(メディチ家)の危機が迫っていたようです。フランチェスコは音楽に造詣が深く、積極的に保護しており、ヘンデルにイタリアに音楽の勉強に来るように誘ったようです。イタリアは16世紀半ばからスペインの支配を受けており、ヨーロッパでの指導的地位を失っていたばかりではなく、1700年初頭からスペイン王位継承権をめぐり、イタリア北部は戦火が絶えなかったようです。
ヘンデルは1706年の夏から秋にかけて、このような政情不安定な危険なイタリアに、自費留学で入っています。ヘンデルはそこまでしても本場でオペラを勉強したかったのでしょう。感服!。最初の滞在地はフィレンチェのフェルディナンドの宮殿(ピッティ宮殿)であったと考えられており、フィレンチェ滞在中にヘンデルはA.スカルラッティ(1660-1725)のオペラ《偉大なるタメルラーノ》の上演を観たようです。しかし、フィレンチェには長居せず、1706年の末から1707年1月始めには既にローマに移動しています。
ヘンデルが滞在していた頃のローマは人口約10-14万人で、ミラノ、ヴェネツィア、ウィーンと同等で、ナポリやライプツィッヒが約25万人、ロンドンの約50万人と比べれば約1/4であり、あまり大きな都市ではなかったようです。(続く)
ユニバーサルから、「J.S.バッハ:ゴルドベルグ変奏曲」(UCCG-1459)(ハープ:カトリン・フィンチ)(録音:2008年3月、カーディフ)が発売されていました。ハープによるこの曲は聴いたことがなかったのですぐに聴いてみました。ハープに詳しくないからかも知れませんが、単にこの曲をハープで演奏しただけとういう印象で、インパクトに欠け、ハープでしか表現できない何か新しい価値も感じられません。 彼女によれば、この演奏に当たって、グールドの演奏を聞いてみたようですが、ハープはやはりバロックの演奏には合わないように感じました。個人的にはハープのように音が長く響いて残るのは、特にバッハには向かないように思います。
Hyperionから、「ヘンデル シャンドス・アンセム集」(CDA-67737)(スティーブン・レイトン指揮、ケンブリッジ・トリニティ・カレッジ合唱団、アカデミー・オブ・エンシェント・ミュージック)(録音:2008年6月29日-7月1日、トリニティ・カレッジ礼拝堂、ケンブリッジ)が発売されていました。このCDに収録されているのは、HWV.254、256a、252の3曲です。(アンセムとは、イギリス国教会の礼拝用のための教会音楽を指します。)
NAXOSからも、「ヘンデル:王室礼拝堂のための音楽」(NAXOS:8.557935)(アンドリュー・ガント指揮、王室礼拝堂合唱団)(録音:2005年7月18-20日、Chapel Royal、St James's Palace、ロンドン)が出ていますが、これには、HWV.256b、250b、251d、249a、251aが収録されています。
三澤寿喜著「ヘンデル」(音楽之友社、2007年)を参考にさせて頂くと、ヘンデルは1711年にイギリスに移住し、同年2月24日のオペラ「リナルド」の初演の大成功以来、一時期ハノーファーに帰国した以外は、ずっとロンドンでオペラ活動をしていましたが、英国王室の政情不安、経済危機により、1717年6月29日にヘイマーケット国王劇場が閉鎖したため、オペラ活動を中断しなくてはならない状況になったようです。
その頃に、カーナボン伯爵であるジェイムズ・ブリッジズから保護の申し出があり、1717年夏から1718年末までの約1年半をキャノンズで過ごしています(ジェイムズ・ブリッジズは1719年にシャンドス公爵となっている)。彼はロンドン近郊エッジウェアの村近くのキャノンズに私的な礼拝堂を有するキャノンズ邸を建てて、日曜日ごとに合奏団・合唱団「キャノンズ・コンサート」を伴う礼拝を行っていたようです。ヘンデルの身分は「住み込み作曲家」で、キャノンズ滞在中はイタリア・オペラから完全に離れて、私的な礼拝用や娯楽用の英語作品に専念しています。ヘンデルは、アンセムの作曲を通じて、英語作品に習熟したようで、ここでの経験が将来の英語オラトリアの原点になっているようです。
このヘンデルのアンセム集は、30歳代前半に作曲されていますが、本当に美しく、バッハにも劣らない傑作揃いです。一般的にあまり知られていないのが本当に不思議です。