B.J. ウィルソン Barrie James "B.J." Wilson
【パート】
ドラムス
【生没年月日】
1947年3月18日~1990年10月8日(43歳没)
【出生地】
イングランド ミドルセックス州エドモントン
【経 歴】
ザ・パラマウンツ/The Paramounts(1963~1964)
ジミー・パウエル&ザ・ファイヴ・ディメンションズ/Jimmy Powell & The Five Dimensions(1964~1965)
ザ・パラマウンツ/The Paramounts(1965~1966)
フレディ・マック・サウンド/Freddie Mack Sound(1966~1967)
ジョージ・ビーン&ザ・ランナーズ/George Bean & The Runners(1967)
プロコル・ハルム/Procol Harum(1967~1977)
フランキー・ミラーズ・フル・ハウス/Frankie Miller’s Full House(1977~1978)
ジョー・コッカー・バンド/Joe Cocker Band(1979~1984)
ウィルソンはミドルセックス州エドモントンで生まれ、ロンドン北部のポンダーズ・エンドで育った。
1963年夏、サセックス州サウスエンドのグループ「ザ・パラマウンツ」に加入する。1963年12月にバンドがリリースしたデビュー・シングル『Poison Ivy』はチャート35位まで上昇するスマッシュ・ヒットを記録、ミック・ジャガーから「最高のR&Bバンド」と評されたがその後ヒット曲を出すことはできなかった。
ウィルソンは1964年に一時的にバンドを離れて「ジミー・パウエル&ザ・ファイヴ・ディメンションズ」に加わったが、半年ほどでパラマウンツに復帰。その後はバンドが解散する1966年まで在籍した。
パラマウンツの解散後は「フレディ・マック・サウンド」(このバンドで出会ったベーシスト、アラン・カートライトとはのちにプロコル・ハルムでもバンド・メイトとなる)を経て、1967年にジョージ・ビーンのバンド「ザ・ランナーズ」に加入。またセッション・ドラマーとしてキャット・スティーヴンスやルルのサポートを務めた。
パラマウンツ時代のバンド・メイト、ゲイリー・ブルッカーが1967年に結成した「プロコル・ハルム」は、その年5月に発表したデビュー・シングル『青い影』を大ヒットさせ、一躍人気バンドとなった。ところがバンドは1967年夏にドラマーのボビー・ハリスンを解雇し、ブルッカーは後任としてウィルソンに白羽の矢を立てる。
1967年7月、ウィルソンはやはりパラマウンツのメンバーだったロビン・トロワー(guitar)とともにプロコル・ハルムのメンバーとなった。これ以降ウィルソンは1977年の解散までバンドを支え、全アルバムの録音に参加した。
ウィルソンのドラミングは重厚かつパワフルで、ジャズからの影響も大きく、独特のスタイルを持っていた。プロコル・ハルムの5作目のアルバム『ブロークン・バリケーズ』(1971年)に収録されている曲『パワー・フェイリュアー』は、ステージではウィルソンのパフォーマンスのために演奏されており、いくつか残されているこの曲のライヴ映像でウィルソンのドラミングを観ることができる。
1968年にはジョー・コッカーの『ウィズ・ア・ヘルプ・フロム・マイ・フレンズ』の録音に参加。
ジョー・コッカーと初期のプロコル・ハルムはともにリーガル・ゾノフォーン(Reagal Zonophone)というレーベルに所属していたという縁がある。
この録音にはのちにレッド・ツェッペリンを結成するジミー・ペイジも参加していた。ペイジはウィルソンのドラミングを気に入り、新バンドに誘ったが、ウィルソンは「プロコル・ハルムの活動が軌道に乗っていた」ことを理由にこの話を断っている。
なおコッカーの『ウィズ・ア・ヘルプ・フロム・マイ・フレンズ』は、イギリスをはじめオランダ、ベルギー、スイスでもチャート1位となる大ヒットを記録した。
ウィルソンは1973年にはルー・リードのアルバム『ベルリン』の録音に参加、『レディ・デイ』と『ザ・キッズ』でドラムを叩いている。
また1975年にはウィルソンは友人で映画音楽作曲家のリチャード・ハートリーに招かれ、当時のプロコル・ハルムのバンドメイトだったミック・グラバム(guitar)とともに映画『ロッキー・ホラー・ショー』(1975 年)のサウンドトラックの録音に参加している。
プロコル・ハルムの解散後は、ベーシストのクリス・コッピングとともに「フランキー・ミラーズ・フル・ハウス」に加入。ミラーのソロ・アルバム『ダブル・トラブル』の録音にも参加した。
1979年には旧知のジョー・コッカーのツアー・バンドに加わり、1984年まで在籍した。
1983年、「AC/DC」のドラマーであるフィル・ラッドが、アルバム『フリック・オブ・ザ・スウィッチ』のレコーディング中(ドラム・パートは録音済みだった)に解雇されたことに伴い、ドラム・パートの再録音のためウィルソンが呼ばれた。しかしウィルソンが起用されたトラックは使用されず、AC/DCの新たなドラマー、サイモン・ライトによる録音に差し替えられた。
1984年、元「シン・リジィ」のスコット・ゴーハム(guitar)や「スーパートランプ」のボブ・シーベンバーグ(drums)らとともに、パトリック・ランドレヴィル(1960年代のカルト・バンド「RHS」の元メンバー)と共演。
1985 年、元プロコル・ハルムのバンドメイトであるキース・リードやマシュー・フィッシャーとともに、ゲイリー・ブルッカーのソロ・アルバム『Echoes in the Night』の制作に招かれ、『Ghost Train』『Mr. Blue Day』『The Long Goodbye』『Hear What You Saying』の4曲の録音に参加した。これがウィルソンの最後のレコーディングとなった。
ウィルソンはその後アメリカ合衆国オレゴン州に移住したが、1987年に意図的な薬物の過剰摂取に意識不明に陥る。
そのまま3年間入院していたが回復することなく、1990年10月8日にオレゴン州ユージーンで肺炎のため43歳で死去した。
ブルッカーはウィルソンを偲んで、翌91年にプロコル・ハルムを再結成した。
【ディスコグラフィ】☆=ライヴ・アルバム ★=コンピレーション・アルバム
<プロコル・ハルム>
1967年 青い影/Procol Harum US47位
1968年 月の光/Shine On The Brightly US24位
1969年 ソルティ・ドック/A Salty Dog UK27位, US32位
1970年 ホーム/Home UK49位, US34位
1971年 ブロークン・バリケーズ/Broken Barricades UK42位, US32位
★1972年 A Whiter Shade of Pale / A Salty Dog UK26位
☆1972年 プロコル・ハルム・ライヴ~イン・コンサート・ウィズ・ザ・エドモントン・シンフォニー・オーケストラ/Live In Concert with The Edmonton Symphony Orchestra UK48位, US5位
1973年 グランド・ホテル/Grand Hotel US21位
★1973年 The Best of Procol Harum UK131位
1974年 異国の鳥と果物/Exotic Birds And Fruit US86位
1975年 プロコルズ・ナインス/Procol’s Ninth UK41位, US52位
1977年 輪廻/Something Magic US147位
<レコーディング・セッション>
1969年 心の友/With A Little Help From My Friends(ジョー・コッカー)UK29位, US35位
1970年 レオン・ラッセル/Leon Russell(レオン・ラッセル)US60位, 日本62位
1973年 ベルリン/Berlin(ルー・リード)UK7位, US98位
1975年 ロッキー・ホラー・ショー/The Rocky Horror Picture Show(サウンドトラック)
1978年 ダブル・トラブル/Double Trouble(フランキー・ミラー)US177位
1979年 Slung Line(ジョン・ハイアット)US202位
1981年 Watch That First Step(Bruce Stephens)※Norway
1985年 Giants In Our Own Room(ボブ・シーベンバーグ)
1985年 Echoes In The Night(ゲイリー・ブルッカー)
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