太った中年

日本男児たるもの

基地閉鎖と再使用

2010-05-15 | weblog

 

普天間基地移設問題でよく引き合いに出されるのがフィリピンの米軍基地閉鎖。ところが閉鎖された基地が米軍によって再び使用されている現状まで知るところではない。そんなワケで以下、年表を追いながら在比米軍基地の閉鎖と再使用、閉鎖に伴うとされる中国の南沙諸島占領を検証する。

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・1946年 フィリピン共和国独立

・1947年 軍事基地協定 

フィリピンの独立と言っても政治、経済、社会の構造は戦前の米国植民地時代と変らなかった。独立した翌年、米比間で基地協定を批准。これによってクラーク空軍基地、スービック海軍基地を米軍に貸与。使用期限は2046年。フィリピンは米国より基地使用料が入ることになった。日本とは反対。

・1966年 ラスク・ラモス協定 (基地使用期限を1991年に改定)

独立後暫くは米国CIAが政治介入、米国の軍政が続いた。しかし10年後、通商条約を改正して反米ナショナリズムの気運が高まる。そして60年代になると独裁者マルコスが登場、圧倒的な政治力を背景に訪米、ラスク・ラモス協定を調印して基地使用期限を1991年にまで短縮した。この頃は英雄。

・1990年 アキノ政権下、基地使用期限延長を大筋で合意

マルコス失脚後、無血革命で登場したアキノ政権。しかし国内の政情は不安定。基地使用の延長合意した前年には軍事クーデーターが勃発。米国は空軍を投入して軍事介入、アキノ政権を支持。また、共産党の新人民軍やイスラムのモロ民族解放戦線と内戦状態が続き、米軍の援助が必要だった。

つまり、米軍基地撤廃運動なんて存在しなかった。では何故米軍基地が閉鎖されたのだろうか。

・1991年 6月、ピナツボ火山の大噴火

神の怒りか、噴火よって近くにあった米軍両基地が被災して使用不能に。危険な状態が続く。

・1991年 8月、米比友好協力防衛条約調印

使用期限ギリギリにクラーク基地返還、スービック基地使用10年延長で政府間合意した。

・1991年 9月、フィリピン上院、米比友好協力防衛条約批准を拒否する議決

これがよくわからない。おそらく復旧工事を廻る費用負担の按分で議会は否決したのだろう。

・1991年 11月、クラーク空軍基地返還

米国はフィリピン議会が希望する原状回復を無視して返還。後に土壌汚染が大問題となる。

・1991年 12月、ソ連崩壊

米ソ冷戦が終結した年でもあった。議会否決に抗議しなかったのは米国の軍事戦略でもある。

・1992年 ラモスが新大統領就任、スービック海軍基地返還

ラモスは米国士官学校卒のエリート軍人。米軍の強い影響下にある政権。さて、以上のように在比米軍基地が閉鎖、返還されたのは、基地使用期限の年、基地が火山噴火の被災に遭い、ソ連崩壊によって米国の軍事戦略変更が重なったためだろう。しかしながら、それですべては終わらない。

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・1999年 訪問米軍地位協定(VFA)を批准

日米地位協定に等しく、基地再使用が可能に。中国脅威論エサにしたクリントン政権の戦略。

・2002年 アロヨ政権、基地再使用を認可

9・11テロにより米国は世界戦略を大きく変更。フィリピンはイスラム過激派アブサヤフと米軍共同で戦闘、壊滅状態に。但し、CIAがアブサヤフへ資金提供したヤラセ疑惑が浮上。また、スービック海軍基地ではチェイニー元副大統領の関連会社が米軍艦のメンテナンスを受注する利権が発覚。

・2004年 イラク人質事件

米国の意に反してアロヨ大統領はイラク派兵部隊を撤兵した。すぐさま米国から制裁を受ける。

・2005年 スービック・レイプ事件

沖縄少女暴行事件と同じ事件が発生、反米感情が一気に噴出した。被害者のニコル(仮名)さんが訴訟を起こし、犯人の米軍兵は国内の法廷で有罪判決。初めて訪問協定を超える画期的なものだったが、犯人の身柄は米国へ移送され、ニコルさんも米国人と結婚して米国へ移住してしまった。

スービック・レイプ事件がウヤムヤに結実したので訪問協定を改定する運動も下火になった。

以上が在比米軍基地の閉鎖と再使用、現在までの流れ。続いて閉鎖に伴う中国の南沙諸島占領。

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「フィリピンは米軍基地閉鎖のため、中国が南沙諸島を占領して酷いことになった」とは冷戦時代の米軍抑止力を未だ信奉する人たちの乱暴で恣意的な言辞。現在、南沙諸島の領有権を主張しているのはフィリピン、マレーシア、ブルネイ、ベトナム、中国、台湾の6ヶ国で、歴史を遡れば更に複雑だ。

植民地時代、最初に南沙諸島の領有権を主張したのはインドシナ半島の旧宗主国フランス。続いて台湾総督府を持つ日本。戦時中は日本が実効支配した。以下、年表を追ってみよう。

・1945年 終戦 南沙諸島の帰属先は未定

・1946年 歴史的理由からフランスが南沙諸島一部の領有を宣言

・1949年 地理的理由からフィリピンが南沙諸島の領有を宣言

・1951年 サンフランシスコ講和条約、翌年、日華平和条約

上記、2つの国際法によって日本は実効支配していた南沙諸島の領有権を放棄した。

・1956年 ベトナムが南沙諸島岩礁上へたびたび上陸

・1970年 ベトナムが南シナ海沖で油田発見

・1973年 ベトナム、南沙諸島を同国フォクトイ省へ編入を宣言

・1974年 中国、ベトナムへ抗議声明、南沙諸島の領有権を主張し始める

・1979年 中越戦争で中国大敗、この頃南沙諸島で海底資源が発見される

・1982年 国連海洋法条約制定、沿岸諸国が軒並み領有権を主張

・1988年 中国とベトナム軍事衝突(赤瓜礁海戦)、中国が勝利支配

・1992年 中国が軍事施設を建設、歴史的理由から領有権を宣言

・1995年 中国、フィリピン主張の島を占領して建造物を構築

・1999年 中国とフィリピン、フィリピンとベトナム間で地域行動基準の共同声明

・1999年 フィリピンの軍艦が中国漁船を撃沈

・1999年 南沙諸島上空でマレーシア空軍機がフィリピン空軍機を追跡

・2000年 米国仲介によりASEANで地域行動基準の共同声明を発表

・2004年 中国とフィリピンで海底資源の共同探査

・2005年 中国、フィリピンにベトナムが加わり海底資源の共同探査

・2007年 中国、南沙諸島を海南省編入を宣言、ベトナム抗議声明

・2008年 台湾、南沙諸島で最大の軍事基地を建設

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以上のように歴史を振り返れば、南沙問題とは中国と沿岸諸国のパワーゲームなのである。