Beach
一諾千金(いちだくせんきん)
史記・季布伝の物語から、男子が一度承知したことは千金にも換えがたい価値があるということ。約束したことは必ず守るべきことのたとえ。
漢の時代、楚国の人で季布(きふ)という者がいた。季布は人を助けることを楽しみとし、「諾」と一言いった以上、その約束は必ず実行したことから、評判が高かった。
一方、同じく楚国の人で曹丘生(そうきゅうせい)という口の達者な男がいた。曹丘は、権力欲・金銭欲が強く、時の皇帝であった景帝の母方の叔父にあたる竇長君の許に親しく出入りしていた。
曹丘は季布が高官になったと聞き、竇長君に季布を紹介するよう依頼した。竇長君は、季布が曹丘のことを嫌っていることを知っていたため、会いに行くのを断念するよう勧めた。しかし、曹丘はしつこく季布への紹介状を書くよう依頼し、竇氏は難色を示しながらも引き受けた。
曹丘はすぐさま紹介状を持って季布に会いに行った。曹丘は、季布が現れると深々と礼をし、「楚国に、『季布の承諾の一言は、黄金百斤より勝る』という諺があります。あなたの名声が梁(りょう)、楚(そ)の一帯に広まったのは、すべて私が吹聴したからです。もともと、私とあなたは同郷人であり、私があなたのことを天下に吹聴して回れば、あなたはますます有名になりましょう」と話した。それを聞いて、初めは曹丘を嫌っていた季布も、すっかり喜んでしまった。
季布は曹丘を賓客としてもてなし、数カ月も家に引き止めた後、帰る時には曹丘に手厚い贈り物を渡した。その後、弁の立つ曹丘は季布のことを遊説し続け、季布の名声はますます天下に伝わった。
後に、「季布の承諾の一言は、黄金百斤より勝る」という言葉から「一諾千金」という諺が生まれた。一度承諾したことは千金の重みがあり、約束を重んじなければならないことのたとえとなった。
◇
武士に二言はない、武士道ですな。
以下、ニューズウィークより日本中を騒がせた謎の習近平(奥さん、シー・チンピンだよ)について。
◇
ポスト胡錦濤、習近平のスゴ腕
次期国家主席の本命に躍り出た「無骨な田舎者」は、元副首相の息子で地方の経済改革を先導してきた党内の人気者。
少し前の中国なら、習近平(シー・チンピン)上海市党書記(54)が共産党の次期最高指導者に選ばれる可能性はゼロだったはずだ。
習はいわゆる「太子党」の一人。「関係(コアンシー)」(縁故や人脈)を使って甘い汁を吸う鼻持ちならない特権階級として、庶民から忌み嫌われている高級幹部の子弟だ。それに習が市場経済に習熟していることも、共産主義イデオロギーの純粋性という観点からみれば有利な条件ではない。
事実、1992年と97年の共産党大会で党中央委員会委員候補に初めて名前があがったときは、習の評価は高くなかった。
だが、慎重に作り上げられた習の庶民派イメージは、徐々に党指導部の注目を集めるようになった。習は農村暮らしの経験があり、自家用車よりバスでの移動を好む。過去に担当した地方の行政や党務でも着実に実績を上げてきた。
第17回党大会(10月15~21日)の直前、党指導部は極秘に党内世論調査を実施した。結果は、習が「最多得票だった」と、政治評論家の李大同は言う。
そして10月22日、習は党中央委員会総会で正式に政治局常務委員に選出され、次期最高指導者の本命候補に躍り出た。この抜擢を意外な人事と受け止める向きも多い。胡錦濤(フー・チンタオ)総書記(国家主席)は、自分と同じ共産党青年団出身の李克強(リー・コーチアン)遼寧省党書記(52)を後継者に選ぶと思われていたからだ。
先週、党指導部が行った党内序列の見直し作業は、ぎりぎりまで熾烈な駆け引きが続いたらしい。結局、胡は李の政治局常務委員昇格と、目の上のたんこぶ的存在だった曽慶紅(ツォン・チンホン)国家副主席の引退とを勝ち取るために、後継者の指名を断念したとみられる。
その結果、習は李と同じ政治局常務委員ながら、党内序列では1ランク上の地位に立った。このままいけば現指導部が引退する12年には、習が党総書記に昇格し、李は温家宝(ウェン・チアパオ)首相の後任になる。
習が一足飛びに党指導部入りを果たしたことは、党内政治の本質的な変化を物語っている。多くの消息筋によると、習が抜擢された理由は二つある。一つは、党責任者を務めた沿海地方の二つの省で経済運営に成功したこと。もう一つは、党内部での高い人気だ。
中国の指導者にとって、大衆的人気は必要条件ではない。だが、現在の党指導部は世論調査を通じて慎重に民意を探り、その結果を人事に反映させる「党内民主」の強化に力を入れはじめている。
目標を必ず達成する男
経済的手腕は、従来の中国では最高指導者に必須の資質ではなかった。むしろ95年に朱鎔基(チュー・ロンチー)が首相に就任して以来、経済のプロはトップの補佐役が指定席だった。
総書記兼国家主席に求められる条件は、少なくとも二つの省で実績を上げていること、イデオロギー的に穏健であること、一族の内部にスキャンダルをかかえていないことの三つ。過去の人事で「経済面での実績が判断基準になったことはない」と、政治評論家の李大同は言う。
若いころから独創的なアイデアマンだった習の昇進は、そんな党内の人事基準が様変わりしたことを示している。父親の習仲勲(シー・チュンシュン)元副首相は文化大革命期に批判されて失脚。息子の習も15歳で陝西省の人民公社に「下放」され、肉体労働に従事した。
だが、ここでの働きぶりが農民たちから高く評価され、習は村の党責任者に就任。さらに地元の推薦を受けて大学に進学した。「当時としては前代未聞の出来事だった」と、80年代から習をよく知る元党関係者は言う。
名門・清華大学で工学を学んだ習は、82年に河北省正定県の党副書記に就任する。ここは発展の遅れた地域だったが、習は国営テレビ局・中央電視台の長編ドラマ『紅楼夢』のロケ地になったことを利用して、撮影セットを人気観光スポットに仕立て上げた。
当時の中国はまだ中央統制経済が色濃く残っていた時代。このような起業家的発想の事業はほとんどなかった。「故宮を別にすれば、観光施設はないも同然だった」と、前出の元党関係者は言う。
その後も習は、経済改革の道を突き進んだ。文革後に復活した父親の習仲勲は、中国初の資本主義の実験場となった「経済特区」の創設に大きく貢献した。習近平は85年、狭い海峡をはさんで台湾と目と鼻の先にある福建省アモイの副市長に就任。それから17年間、習は「今すぐやろう」をスローガンに掲げ、台湾との両岸貿易を大幅に増加させた。
02年には、同じ沿海部にある浙江省の党副書記兼省長代理に転身。ここでも起業家精神を発揮して、揚子江デルタ地域の企業経営者の連携を図る組織を立ち上げ、民間企業主導で経済発展をめざす「浙江モデル」の旗振り役になった。
地元の民間活力を刺激する改革を推し進めた結果、浙江省は20年連続で年13%以上の経済成長を実現。「習は中国の経済改革の最前線に身を置いていた」と、地元・温州大学の謝健(シエ・チエン)教授は語る。
民間部門が経済全体の4分の3近くを占める浙江省の旺盛な活力は、外国の要人からも注目を浴びた。ヘンリー・ポールソン米財務長官は06年9月の訪中の際、真っ先に習と会って夕食を共にした。「目標に掲げたことは必ずやりとげる男だ」と、ポールソンは習を評している。
汚職と闘うミスター・クリーン
こうした外国からの称賛は、以前なら出世の足かせになったかもしれない。だが今は違う。共産党は次期総書記の最有力候補に、党内初の現代的政治家である習を選んだ(党員や民衆の間で習の人気が高いのは、人気歌手・彭麗媛<ポン・リーユアン>の夫だからでもある)。
それでも欧米人の目から見ると、習はどこかあか抜けない印象を受ける(ネット百科事典ウィキペディアの英語版には「武骨な田舎者」という表現が載っているが、中国国内では閲覧できない)。先日の党大会では、椅子にふんぞり返り、短めのズボンのすそから安物の白いソックスをのぞかせる映像が流れた。
今も謹厳実直を好む傾向が強い党の内部で、太子党という特権階級の一員である習が高い人気を得られるのは、この泥臭いイメージのおかげでもある。若いころに農村部で苦労した経験があるので、貧しい地方の党官僚だった胡錦濤からみても受け入れやすい。
一方で、高級幹部の息子という生まれと経済発展の著しい沿海部で実績を積んだ経歴は、今も隠然たる影響力をもつ江沢民(チアン・ツォーミン)前総書記を中心とする「上海閥」にもアピールできる。
習には、高級幹部の汚職問題が大スキャンダルに発展した上海市と福建省で組織の立て直しに尽力した経験もある。習は上海市党書記に就任早々、幹部たちを呼んで資産の公開を命じたという。
その結果、「習はとてもクリーンな人物とみられるようになった。民衆はもう汚職はこりごりだと考えている」と、上海に拠点を置くある欧米企業の首脳は語る。
中国の民衆は、汚職の代わりに習近平を手に入れた。中国らしい部分を残した現代的な共産党のニューリーダーを。
◇
習近平副主席の「謎」を解く手紙
中国の次のリーダーと目される習近平・国家副主席が今年9月、その登竜門とされるポストに選出されずに憶測を呼んでいたが、その謎を解く手紙の存在が明らかになった。
中国の習近平(シー・チンピン)・国家副主席は胡錦涛(フー・チンタオ)国家主席の最有力後継者だが、なぜか今年9月の共産党の会議でその登竜門とされる中央軍事委員会副主席に選ばれなかった。世界のチャイナウォッチャーの間に中国政治の奥の院、中南海で権力闘争が始まったとの憶測が広がっていたが、その謎を解くカギが明らかになった。
中国軍と近いとされる香港誌「鏡報」が最新の12月号で、習が9月の会議の前に「しばらく軍事委副主席に就任したくない」と求める手紙を胡あてに出していた、と報じた。習は「自分は党中央で働いた時間がまだ短く、経験も浅い」「(軍事委員会主席でもある胡錦涛が)軍の内部で高めた権威をまだ揺るがせたくない」といった理由を挙げたという。
中国の政治家にとって、人民解放軍を指導する軍事委員会ポストは権力を掌握するうえで不可欠とされる。小平や江沢民(チアン・ツォーミン)は、最高指導者の座から引退した後もしばらく軍事委委員会主席にとどまった。
胡錦涛も「院政」を始める?
習の手紙について、中国人政治学者の趙宏偉(チャオ・ホンウエイ)は「軍事委副主席への就任を1、2年遅らせ、自分がトップに就いた後もその同じ期間だけ胡錦涛に軍事委主席の任期延長を認める、というメッセージでは」と推測する。「胡も『院政』を始めるかもしれない」
07年の党大会では、胡と同じ共産主義青年団(共青団)出身で有力後継者と見られていた李克強(リー・コーチアン)副首相と、元副首相の父をもつ「太子党」でもある習の序列が大方の予想と逆転。以後、共青団出身者の「団派」と、太子党の間で次期トップ人事をめぐる抗争が起きていると言われてきた。
だが習が胡に「院政」を容認する手紙を出したとすれば、少なくとも習と胡の間に争いはなく、習の次期トップ就任は動かないことになる。現に習は12月14日から、胡の前例にしたがい「トップ就任3年前の日本訪問」に出発。胡と同様、天皇にも会見する。
今回の手紙は軍事委をめぐる人事だけでなく、いまだに謎に包まれた習という人物を読み解く一つのヒントになるかもしれない。
習は「第2の小平」か
習の父親の故・習仲勲(シー・チョンシュン)は文化大革命で迫害され、文革後の78年に「復活」した後は経済特区構想を押し進めたリベラル思想の持ち主として知られている。だが習自身は今年2月、メキシコ外遊中に「腹がいっぱいになってやることのない外国人がわれわれの欠点をあれこれあげつらっている」と、激しい言葉で一部の外国を批判した。
今年10月の建国60記念周年パレードで、胡は現役の国家主席であるにもかかわらず、自らの写真を毛沢東、小平、江沢民に続く歴代指導者の1人として高々と掲げさせた。
習は胡の中で生まれつつある権力への執着を敏感に読み取り、自らの権力継承をスムーズにするため「院政容認」という一手を打ったのかもしれない。だとすれば老獪な人物だ。メキシコでの発言も、共産党内の保守派に配慮した可能性がある。
習はこれまで主に福建省や浙江省、上海市など経済が発達した沿海部の地方トップとして実績を積み、北京の「政治」とは無縁だった。「政治的には保守派でもリベラルでもなく『無色』だ」と、政治学者の趙は言う。「父親もリベラルな政治家というよりむしろ優秀な実務家だった。習自身も実務家タイプで、政治改革より経済発展を優先する可能性がある」
「老獪」な「実務家」──中国の次のリーダーは体型こそ毛沢東のように大柄だが、中身は「第2の小平」なのかもしれない。
◇
日中新時代を告げる小沢大訪中団も奸臣羽毛田の策略で天皇特例会見のバカ騒ぎとなり、習近平(奥さん、シー・チンピンだよ)が去ると国賊小沢の大合唱だけが残った。さて、来日するまで謎の人物だったシー・チンピンはニューズウィークによれば党内ベンチャーの旗手、党内民主化の人気者、老獪な実務家だった。奥さん、イヤだと言っても、小沢さんが去っても米国の凋落、中国の発展を考えれば日本はこの先シー・チンピンと付き合って行かなければならないのである。何故ならそれが米国の世界戦略でもあるからだ、シー・チンピン。