虚ろな眼をした初老の女性、人は彼女をゾンビローラと呼ぶ。
ゾンビローラ(ゾンビのような婆さん、名前と年齢は不明)は床屋のスタッフでメルシーに次いでやって来たように記憶している。というのも、当初、口数が少なくて、シワの多い物静かな婆さんだなぁーくらいの印象でしかなかった。ゾンビローラは離婚歴があり、成人した子供が何人かいる。メルシーと同じ経歴だ。したがってメルシーとはウマが合い、仲良くなった。ところが暫くするとメルシーと決裂しゾンビローラの名を世に知らしめ、伝説となる出来事が起きた。これだから床屋の2階フィリピンライフはヤメられない。
それはある日のことだった。昼メシを食べ終わり、床屋の前で喫煙しながらワンちゃんとレッド・ツェッペリンのドラマー、ボンゾについて語り合っていると、ボンゾのような大男のアメリカ人が来て「この床屋にはマッサージメニューはあるのか」と聞いてきた。気の弱いワンちゃんは尻込みした。大体、ローカルな床屋に来る白人はマッサージ+ジャコール(手コキ)を求めるものであるから「ボディ・マッサージはあるけどシェイクハンドはねーよ」と言ってやった。すると食堂の売店から叔母さんが「マッサージOK,カムイン」と叫んだ。
こうしてアメリカ人の大男は床屋の奥にあるマッサージベッドに横たわりゾンビローラの施術を受けるのであった。プリンスはワンちゃんに大男のイチモツをスラングでビッグ・ジョン或いはロング・ジョンつーんだぜと教えるとワンちゃんは感心し、確かめてみるといってカーテンの隙間から携帯で盗撮した。そこに映っていたのはビッグ・ジョンならぬスモール・ジョン。ワンちゃんは「僕のほうがビッグ・ジョン」とデカマラ自慢をしてほくそ笑んだ。床屋はスモール・ジョンの話題で持ち切りになったが、メルシーだけは話題に参加しなかった。
そして翌日の昼下がり、再びスモール・ジョンが床屋に来た。しかしマッサージではない。ワンちゃんに呼ばれたプリンスがスモール・ジョンの話を聞くことになった。プリンスもそうだがワンちゃんはロックが好きでいつも聞いているからかなり英語ができる。しかしスモール・ジョンの生英語はダメのようだ。ただプリンスはタガログ語が少しだけだからうまく伝わるかどうか疑問だった。しかし、日本男児たるものチャレンジ精神なのだ。
スモール・ジョンはアメリカ空軍の指揮官、叔父さんと同じ階級だった。休暇で近くのマリオットホテルに滞在していた。昨日のマッサージ・セラピストがとにかく気に入ったのでホテルの部屋に来て施術してくれねーかつーことだった。しかし問題がある。叔母さんの床屋マッサージはビューティーサロンに付随したサービスであってスパとしての営業許可を取っていないモグリの営業。だから5つ星のマリオットホテルには出入り出来ない。ただ叔父さんがホテルのセキュリティーを請け負っているからつーことで叔父さんを呼んで事情を説明した。叔父さんは一言、任せろといいスモール・ジョンと話し始め、意気投合、そのまま一緒に飲みに出た。
かくしてスモール・ジョンのお気に入り、ゾンビローラは3夜連続でマリオットホテルへ出張した。ゾンビローラは英語がダメだからナニかあればスモール・ジョンがワンちゃんの携帯に直接メールするつー万全の態勢で臨んだ。最初の夜が終わるとさっそくスモール・ジョンからメールが来た。ブロージョブ(尺八)はOKか、と。
フィリピン人を理解するには見栄、自慢、嫉妬の3つを押さえれば事足りる。その3つがフィリピン人の行動原理だから。最初の夜が終わった翌朝、ゾンビローラは財布を開いて見せ、スモール・ジョンから多額のチップを貰ったことを自慢した。手コキの手間チンである。で、ワンちゃんがブロージョブの件を話すとゾンビローラは「私は高いのよ」とジョークを飛ばしたとき、黙っていたメルシーが「バストース」(いやらしい)と吐き捨てるように言った。そして床屋の手コキ婆さんと尺八オバサンによる壮絶な罵り合いが始まった。
尺八オバサンのメルシーはゾンビローラに激しく嫉妬していたのである。仲良しの2人はこのバトルを期に絶縁状態に陥った。バトルのウィナーはもちろん多額のチップを見せびらかして悦に入るゾンビローラだ。
ゾンビローラの出張マッサージが終わった夜、またまたワンちゃんの携帯にメールが来た。スモール・ジョンはゾンビローラと一緒にリゾート地ボラカイ島へ旅行したいというのだ。それをゾンビローラに伝えると天にも昇る気持ちになったのか「プリンス、ビキニで大丈夫かしら」と信じがたいことを口走った。しかし、夢はそう長く続かない、人生とはそういうものだ。携帯送信歴から足が付き不倫旅行の企みはスモール・ジョンの奥さんの知るところとなって話はご破算になり、スモール・ジョンはマリオットホテルから去って行った。
スモール・ジョンと入れ替わる形で床屋に出没したのがゾンビローラの恋人と名乗るブッダローロ(仏陀のような顔をした爺さん、ワンちゃんがネーミング、ゾンビローラはプリンスのネーミング)。ブッダローロはタクシードライバーでゾンビローラと同棲しているという。このところ帰りが遅いので探りを入れに来たのだ。ブッダローロはワンちゃんからスモール・ジョンの真実を聞くと嫉妬に狂い、ブッダの顔は怒りに満ちた。
ゾンビローラはスモール・ジョンとの一件が終わると人が変わったようにおしゃべりになった。床屋へ出勤するとシワ枯れた顔を隠すかのようなメイクをして若づくりのファッションになった。仕事が終わればどこか遊びに行き、ゾンビローラもまたメルシー同様ララケーロ(男好き)の本性だった。ブッダローロは仕事の合間、床屋へ監視に来た。夜、ゾンビローラがいないとタクシーで寝て待つことも度々で、ワンちゃんと一緒に酒を飲んでグチをこぼすようになった。普段はやさしいブッダローロも嫉妬に狂うと抑制が効かなくなる。
ブッダローロの次に登場したのがアメリカ黒人のニグロ(ワンちゃんネーミング)。ニグロはスモール・ジョンの部下でアメリカ空軍兵。やはり休暇でマリオットホテルに滞在していた。スモール・ジョンから言われてゾンビローラの様子を伺いに来たのだ。ニグロが目を付けたのはなんとメルシー。滞在中何度かニグロとメルシーはデートした。その都度メルシーは犬猿の仲のワンちゃんに一緒に飲まないかと当てつけがましいメールを送ったのだ。ゾンビローラとメルシーのバトルはスモール・ジョンとニグロの上下関係を考えればゾンビローラがウィナーだが、スモール・ジョンの手コキとニグロのビッグ・ジョン尺八を加味すれば両者引き分けだろうな。
さて、ゾンビローラの仕事は手コキマッサージではなくネイル・ケア、マニキュアが本業である。そして老眼鏡を使用してする仕事は非常に遅い。床屋2号店が延期となったため、結局、仕事の出来るディンプルと交替するようホーリーウィークを最後に契約は打ち切られた。ゾンビローラはブッダローロと共に床屋を去った。
格闘王jet師範が床屋に来た時、鍛え上げられた体を見て「マッサージさせて」と言ったことが思い出深い。