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拉致の解決を願って
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特定失踪者を取りあげた記事の紹介(2)

2008-05-05 | 記録
神戸新聞の丁寧な独自取材です。
連載記事ですので一回目だけを掲示します。
※続きは、下記リンクを辿って、全編を是非ご一読願います。

オキナワの青年 特定失踪者を追う第2部 

 
一九六五年の年明け早々、仲村克巳(かつみ)さんは那覇港から神戸行きの船に乗り込んだ。当時、二十一歳。内地での就職に反対する家族には内証だったから、見送る人はいなかった。故郷・沖縄は米軍の統治下にあり、パスポートを手にしての旅立ちだった。

 就職先は尼崎市にあった製鉄所。一月十二日、市役所に転入届を提出した。

 父、亀永(きえい)さんは、寮住まいの克巳さんにすぐ手紙を送った。既に亡き亀永さんに確かめようもないが、長男の“家出”をよほど心配したのか、続けざまに〈葉書(はがき)着き次第返事を送って下(くだ)さい〉と二信目を書いた。「RYUKYU」と読み取れるスタンプの日付は「65・2・5」だった。

 父の便りはこう続く。

 〈家族中皆元気です。例年の様(よう)に旧正月を祝ってほっとした所です〉



 沖縄には二度、正月がやってくる。沖縄の年中行事は旧暦(陰暦)で日が決まる。正月は、新暦の一月一日にも祝うが、旧正月も大切にする。

 克巳さんは沖縄本島中部、中城(なかぐすく)村の農家に生まれた。克巳さんがいたころ、新暦の元日は、冷え込みで甘みを増したサトウキビの収穫繁忙期。五歳下の妹、栄子さん(59)によれば「ニーニー(兄)は頑張りすぎなぐらい働いた」。祝いごとの余裕はなかった。

 旧正月の思い出は、ある。「うちは貧乏だったし、大したお祝いはしなかったけど、お年玉とごちそうがうれしかった」と栄子さん。豚の三枚肉や結び昆布、大根の煮物を仏壇にお供えし、新年の幸せを先祖に祈る。お下がりを家族でいただく。あいさつ回りをし、お年玉をもらう―。肉は当時、まだ貴重だった。

 もう一つ、印象的な旧正月の風景があった。どの家も日の丸の旗を門に立てた。中城村でもこぞって掲げた。資料によれば、一九五〇年代、日本への復帰運動として沖縄の革新勢力が日の丸を広めた。日の丸は、不戦を誓う日本国憲法の象徴だった、という。

 亀永さんがはがきを送った直後の六五年二月七日、ベトナム戦争を戦う米軍は、北爆を開始する。発着する戦闘機のごう音が、基地と化した島“オキナワ”に響いた。



 尼崎で就職した克巳さんだが、その後、職を転々とする。そして、四年後の六九年夏、西宮市内の下宿に「神戸へ行く」とメモを残し、消息を絶つ。

 二〇〇三年、克巳さんは、妹の和子さん(61)らの申し立てで、北朝鮮に拉致された可能性を否定できない「特定失踪(しっそう)者」の一人に挙げられた。



(企画報道班)(2008/01/01)

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 キンモクセイが香る秋から約三カ月、私たちは仲村克巳さんの取材を続けている。名前を知る人さえ数少ない。四十年の歳月を経た街で、迷宮を歩くように無名の青年の足跡を探した。それは「戦後」をたどる旅にもなった。
 第二部は、私たちが知り得た克巳さんの人となりを伝える。消息につながる読者の情報提供にも期待しながら。
(1)旧正月 職求めて孤独な旅立ち(2008/01/01)

(2)故郷 農地狭く移民最多の村(2008/01/03)

(3)労組 頑張っても希望がない(2008/01/04)

(4)出稼ぎ 母親思いの長男の選択(2008/01/05)

(5)製鋼課 大量採用、次々と離職(2008/01/06)

(6)寮 写真に高度成長の面影(2008/01/07)

(7)岐路 帰郷せず転職繰り返す(2008/01/08)

(8)牛乳販売 街並み一変 手がかりなく(2008/01/09)

(9)パスポート 拉致の決め手にならず(2008/01/10)

(10)先送り 前世紀のつけ悲しみ深く(2008/01/11)

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