脱北者Yさんの証言 聞き手:野口孝行氏(北朝鮮難民救援基金)
☆野口孝行氏のあいさつ
こんにちは。
北朝鮮難民救援基金の野口です。(拍手)
いつも神奈川の会にはですね。
私たちの団体は、難民の救援について活動している団体なんですが。
いつもご協力をいただいて貴重な時間をいただきまして、ほんとに会の方、そして皆様にいつも感謝しております。
ありがとうございます。
脱北者の方と話をする前に、ちょっとお知らせがありまして、8月1日ですね。
「北朝鮮難民と人権に関する国際議員連盟とNGOの会議」というのが予定されていまして、皆様のお手元にあります、私たちの会報にもいろいろ書いてあるんですが。
難民問題に関係している団体、そして救う会、特定失踪者問題調査会等々NGO、国際議員、各国の議員さんが集まって会議をします。
興味がある方はたくさんいらっしゃると思うので、注目していただきたいと思います。
それとですね、7月31日ですが。
チラシが入っているので、ご覧になられた方もいらっしゃると思いますが。
「ソウル・トレイン」というですね。
脱北者が中国まで逃げてきて、そしてその人たちがどうやって韓国までたどり着くのか、というドキュメンタリー映画を、アメリカの監督が作りまして、それを日本で上映する会というのが、日本であります。
7月31日に文教区民センターで行われるんですが、興味のある方は、ぜひ足を運んでいただきたいと思います。
これから脱北者の方とお話をするんですが、マスコミの方にお願いがあるんですが。
多くの脱北者の方がそうであるように、まだ北に家族が残っている関係で、こちらの日本にたどり着いたことがわかると、(北にいる)家族に害が及ぶ恐れがありますので。
申し訳ないですが、顔は映さないようにしていただきまして。
公の場で出す場合は、音声の方も変えていただきまして、顔も一切映らないようにしていただきたいと思いますので、よろしくお願いいたします。
☆脱北者Yさんの証言(聞き手:野口孝行氏)
(会場脇より脱北者Yさんが登場、正面席に着席)
※野口氏質問(以下野口氏)
それでは。
お話するのが、まだ慣れていないということで、私がきっかけみたいな形でお話をうかがいたいと思います。
まず、最初に聞きたいのは、先程の1960年代に帰還事業で向こう(北朝鮮)に渡ったそうですが、その時の乗った時の様子と、何歳くらいの時に北朝鮮に行ったのかと言うことをちょっとお話しください。
★脱北者Yさんの回答(以下Yさん)
私は日本の大阪で生まれました。
日本で教育を受け日本の学校を卒業して日本で就職して、18歳の時に父母に付いて北朝鮮に行きました。
それから北朝鮮に着いた途端に「ああ、北朝鮮に行ったのは間違いでだった」とそれを感じました。
どうしてか感じたかというと、日本で聞いた時は
「朝鮮の国は、地上の楽園で夢のような良い国で、仕事をしなくても食べていける。
勉強はただで、病院もたただ」
と、そういういろんな宣伝に騙されて、うちの父母たちは正直一本で。
そう言う人たちの宣伝に本気になって(北朝鮮に)行くために、私は行きたくないのに連れていかれたというか、父母が行く所にしょうがなく行ったのです。
行ってですね。
一番初め船が着いた途端に「間違ったな」と思って、改めて話したんですね。
「この船で日本へ帰して下さい。私は日本に帰ります」
と。
それで、(北朝鮮に)帰る時は、「絶対(日本)に帰ることが出来ない」ということを知らないで行ったんですね。
行ってみて、気に入らなかったら日本に帰れるものだ、とそういう気持ちで行ったんですけど。
着いた途端に、日本に帰ると言ったのを、絶対にそれは出来ないということがわかって、その日から日本に帰るのを夢に見て、
「いつかは必ず自分が生まれて育った日本に帰るんだ」
とそういう具合に北朝鮮に生きました。
※野口氏
実際に船に乗ってですね。
北朝鮮に着いた時に、何を見て何を感じて、この国は言われていた・宣伝されていたものとは違う、と具体的に思ったのですか?
★Yさん
私たちを迎えに出てきた大学生たちの服装とか、顔色を見て、日本では見たことがないような質の悪い服装をして。
人間たちの顔色というのは、栄養失調に近いような。
その頃から北朝鮮というのは食糧難に遭っていたようでしたが。
私は、何のために人間の顔はこのようななのかというのは知らなかったんです。
とにかく日本では見たことのないような人たちだなと。
それから(北朝鮮の)山には木が全然ないんですね。
全部裸なんです。
だから国が豊かではない、ということを感じました。
※野口
それで今はですね。
いろいろな報道、テレビなどで「あの国は貧しい」ということをみんなが分かっていると思うんですけど。
ほんとにその時は、宣伝で北は豊かな国だどいうふにう言ってたと思うんですけど。
疑いとかそういったものは一つもなかったんですか?
ほんとにすばらしい国だと思って、あの当時みんな行かれたんでしょうか?
★Yさん
私が日本にいる時、「朝鮮」という画報があったんですね。
その画報を見て、女がツルハシを振るって仕事をするのを、また女がみんな農業をやっている姿を見て。
なんだかおかしいな?とは思ったんですけど。
まさか嘘は言わないだろう、悪い所には送らないだろうと。
まあ、人を信じることが悪かったのかも知れませんけど(笑)、信じて(北朝鮮に)行ったのは本当です。
※野口氏
それで結局向こうに着いてですね、中国の国境に近い場所へ配属されたという事ですが。
実際、生活になじんでいく時のですね。
向こうの生活、一年一年、年を越すにつれて、いろいろ辛いことがあったと思うのですが。
日本を思いながら。
その中でも特に恋しかったものとかですね、これはなれるのが大変だったという向こうの生活は何でしょうか?
★Yさん
朝鮮に行って一番嫌だったことは、改めて学校に入って「(朝鮮の)言葉と字を習わなければ」と思って学校に入ったんですね。
それが、その教育の仕方が気に入らなかったのです。
というのは、日本とアメリカに対しては、私の知っている日本ではなく、とても悪い国で。
アメリカも悪い国で。
朝鮮だけが良い国だと。
そういう教育の仕方は間違っているんじゃないか?
こういう形で子供たちを教育して育てて、何がその中で偉い人が現れるのだろうかと思いました。
「私が見た日本はこんな悪い国ではなかったのに、どうして日本はこんなに悪い国として子供を教育するのに当たり前のようにしているのだろう」と。
また、それを聞く子供たちも、学生たちも教わるものが本当に悪い国だと思われるもので、私が日本から来たというので、日本について私にいろいろ聞いてくるのです。
それに対して正直に話すことが出来ないんですね。
「言論の自由」がないというのが一番苦しかったです。
※野口氏
それで、日本のことを考えながら生活していったと思うんですが。
自由にものが言えないこともありますし。
何か、こう日本のもので恋しいいなぁと思ったもの、ものとかそういった物で何かありましたか?
★Yさん
私たちが何十年も北朝鮮で耐えてきたというのは、日本で教わった童謡とか。
「うさぎ追いし、彼の山」(故郷)そういう童謡とか。
歌手たちの歌(歌謡曲・流行歌の事か?)とか、そういう歌の文句を聞く度に力をつけて。
「頑張って日本に帰るまで、死なずに生きよう」と。
それで帰国者たちが、お互いに励まし合って、苦しい時は童謡とか歌を歌って、それで耐えてきた。
それが力になりました(徐々に涙声になる)。
皆さんはここ(日本)で生まれて、ここで育ってそのまま自分に国にいるから分からないと思いますが。
一時この国を離れたとき。
もの凄く地獄のような所に行ったら、小さい時に覚えた童謡はとっても懐かしく、また自分の通っていた学校の校歌が、自分には本当に力をつけてくれました。
※野口氏
そういう状況でくらしていて、60年代くらいはまだ食べる物があったと思うんですが。
90年代の半ばに向けて、どんどん食糧事情はどんどん悪くなっていったと思うんですけど。
食べ物が減ってきているなというのは、どういう形で差し迫るような変化がありましたか?
★Yさん
(北朝鮮は)全てが全部配給制度なんです。
味噌・醤油はもちろん、靴、布、全部が配給で(配給)カードをくれるんですね。
(そのカードを)持っていって配給を貰うのも1ヶ月に2回、15日分の配給を貰うようになっている。
90年代に入って、それまで当たり前に行われていたその配給ができないんですね。
それでも94年までは、金日成が亡くなるその年までは、もらえなかった配給の(不足分は)年末に貰える年もあったのですが。
(金日成が死んだ94年の)その後からは、(年末の補填は)ぜんぜんなくて。
くれないものと思うようになったのが、97年からは、だんだん人々が(飢えて)死んだとか、食べる物がなくて人を殺して食べたとか、変な評判が出るようになったのが、96年・97年度からでした。
※野口氏
Yさんの住んでいた所には、他にも日本からの帰国者の人たちがいたわけですよね。
その皆さんは、どのように食べ物を調達して、くらして工夫がいろいろあったと思うんですけど、どのような工夫をしてみんな生きていたのですか?
★Yさん
北朝鮮という所は山火事が多いんですね、どうしてかしら?
その山火事になったら、山の木が燃えてしまうんですから。
その木の無い所には、自分が行って、畑を作ってトウモロコシとかジャガイモとかを植えてもいいことになってたんです。
それも初めはね。
90何年度だったか、それまではそれもできないようになってたんです。
だけど、だんだん人間が餓死するようになったもんで、空いた土地へ行って、自分の力で耕して食べることを許可するという法ができたもので、力のある人たちは山へ行って、作物を植えて、自分の力で食っていくと…。
そういう方法で早くから始めた人たちは、餓死ということはなかったんですけど。
力がなくてそういう工面ができない人たちは、配給所にばっかり頼って、毎朝ご飯食べたら配給所の前に行って座って、配給くれるのを待ってる人たちは、段々と倒れてしまったんです。
早めに畑へ行って、自分の力で耕して食っていくという人。
それから動物、豚とか山羊、そういうのを家で養って、栄養が足りない時には潰して食べるとか。
そういう具合に暮らすようになって、人間たちがだんだん知恵が回ってですね。
餓死しないように気をつけて、頭を回し、自分の力を頼るようになってきました。
国を頼るんじゃなくて、自分の力を頼って自分で生きていくのだ、とそういう考えを早くした人は生き残っていると思います。
※野口氏
住んでいらしゃった所に、他にも日本から帰っていった人たちがいるということですけれども。
ういった人たちとお付き合いがあったと思うんですけど、その人たちとは、普段は日本語で会話をしたりするんですか?
★Yさん
はい、そうですね。
大抵は帰国した人たち同士が集まって、お正月とかお盆に集まって。
無いながらでも一杯飲んで、冗談を言ったりはするんですけど。
北朝鮮の地元の人たちと一緒に馴染めない仲に、その人たちに変な具合に政治的に引っ掛かるような話をしたら、(当局に)言い伝えるんですね、その人たちは。
だから帰国者同士では、そういうことは絶対なかったんです。
(お互い)心を広げて「日本に帰りたいな」とか「金日成いつ死ぬのかな」そういうことを言っても、無事でしたから。
そういう中で、日本人妻の人たちは特に生活力がないのですね。
商売をすることも知らないし、畑に行って何かを作るっていうことも知らないし。
配給所の前に行って、じっと座って待ってるのが日本人妻でした。
※野口氏
それっていうのは、つまり、(日本人妻は)受身というか。
自分から何か生き延びるためにやるというようなことが、出来ないような状況だったんでしょうかね?
★Yさん
畑を耕すには力がいるんですよね。
(苦笑しながら)腹が減っては何も出来ないじゃないですか。
だからね、悪いこともしなければならないんですよ、時にはね。
北朝鮮はみんな協同組合といって、国で農業をしてるんですね。
だからそういう農業組合の作物なんかを、泥棒して食べる人もいるんですけど、帰国者とか日本人妻という人たちは泥棒が出来ないんですよね。
もう正直一本で。
「とにかく待っていたら(国が配給を)くれるだろう」と、そういう具合で死んでしまう人が多かったんです。
私たちの家は日本に親戚がいて仕送りがありましたから、そんなに苦労はしなかったんですけど。
日本人妻たちには日本から全然何もがなかったものですから、その人たちは、正直バカ一本で配給所にばかり頼って。
とにかく貧乏して苦労して、そういう人たちを私は沢山見ました。
※野口氏
そういう人たちというのは、やはりみんな、亡くなってしまう人たちも多いのですか?
★Yさん
日本人というのは特徴が、とにかくあきらめが早いんですね。
これ以上駄目だと思ったら自殺してしまうんですよ。(会場からため息が漏れる)
首吊るとか、川にはまって死ぬとか、ガスを、あそこはガスってないんですね。
石炭ガスです。
そこに鼻をつけたまま死ぬとか。
まあ「死なずに、どうにか日本へ帰ろう」という考え方をするんじゃなく、諦めててしまうんですね。
それが私、とっても残念でした。
自分の家に食べ物がない時は人の家に借りて食べるとか、そういうことを考えないんですね。
恥ずかしく思うのか?
とにかく、同じ「帰国者」でも日本人妻たちの生活の仕方というのは、日本で暮らして教育を受けたそのままに、他人の物には欲を出さないこと、嘘をつかないこと。
私もそういう教育を受けましたけど、北朝鮮にいってはそれが通じないんです。
時によっては悪いこともする。
協同組合のジャガイモも、私泥棒したこともありますけど、日本人妻たちはそういうことが出来ないんですよね。
ですから、豆満江にはまって死んだ人もいましたし、首吊って死んだ人もいます。
その人も私と同じ名前でしたけど、そういう人たちを見るとね、私、同情しませんでした。
「残念だね、なんて馬鹿だかね」と。
ま、生きていたおかげで、私こういう具合に日本に帰ることができたんですけど、その人たちのことをつくづく考えますね。
「死なずに、どうにか一生懸命やって帰ってくれれば良かったのに」と。
※野口氏
そういう強い気持ちがあって、中国に脱北したわけですけど。
一度捕まったことがあるという話しですけど。
その時はどういう状況で捕まって、捕まった後はどうでしたか?
★Yさん
それをここで話しても、皆さん想像つかないと思いますけど。
私は97年度から中国に渡って、日本に帰るように一生懸命やっていたんですが。
その間に2回捕まりました。
運がよく、悪運が強いものやら、今まで命があったんですけど。(笑い声)
中国で捕まった時は、北朝鮮よりはマシですね。
食べるものは食べさせてくれるんですから。
だけど北朝鮮というのは当たり前のように人民たちに食べるものがないんですから。
脱北して自分を裏切ってた政治犯に対する待遇というのは、食べ物っていうのは全然ね。
人間の食べるようなもの、ここでは想像つかないと思います。
私の方はちょっとマシだったんですね。
だけど(一緒に捕まった)私の子供たちは、(北朝鮮に捕まって拘留中)食べられないような物をくれる物で、15日間一食も食べなかったそうです。
でも死ななかったんです、水は飲むものですから…。
人間というのは、なかなか寿命が、そう簡単には死なないんですよ。
15日間一食も食べなくて、それでも水飲んで死なずに辛抱したらしいです。
(当局側がこれでは)死ぬかと思って、無理に食べろと命令して、そういう具合にしてどうにか生きて、また中国に渡ってきました。
※野口氏
2回目に中国に出て来て、その時も捕まってしまうんですね?
その時は、捕まってどういうお気持ちでしたか?
★Yさん
その時はもう最後だと思いましたね、二回目だから。
その時は息子と一緒に捕まったんですけど。
(息子は)手錠を後ろ手にかけられ、足にも足枷をかけられて、それからロープでも極める(=縛るの古い表現)んですね、絶対に逃げられないように。
私にはそこまではしなかったんですが、若い人たちにはこういう具合に捕まえていくんです。
中国の警察というのは、捕まえていくのは北朝鮮よりもっとも酷いんですよ。
その点、北朝鮮は手錠もろくろくないんですから(笑い声)、手を極めるのも紐で縛って…。
賢い子たちは、どうにか(解いて)逃げる若者たちもいるらしいけど。
中国は絶対にそういう具合に逃げられないように、(笑いながら)手も足ももう全部、そしてもう、「こりゃあもう死刑場に行くのかな」と思ったんだけど。
よく考えてみたら「私、そんなに悪いことをしていないのに、そう死ぬわけがないだろう、生きるまで生きてみよう」と思ったのが刑務所でした。
※野口氏
それで2回目に捕まった時は、4ヶ月中国の留置所というか、収容されたわけですけれど。
それでですね、運良く日本の外務省との連携もあって日本に帰ってこれたわけですけれど。
40年ぶりくらいに帰ってきたわけですけれども、実際今帰ってきてまだ1年経ってないですけど。
初めて、何十年かぶりに帰ってきた時の、ずーっと何十年も思い続けてきた日本、最初どう思いましたか?
★Yさん
一番初め、中国で立つ時に、中国にいる日本大使館の人が来て、「行きましょう」って言うから、―中国のチャンチョン(音訳)という所です。
「どこに行くんですか?」って聞いたら「日本へ行くんです」と言われた時、私は聞き間違えたのかと思ったんですけど。(苦笑する)
とにかく着いた所が成田でした。
成田に着く前、日本が見えた時の感じっていったら、嬉しいというよりも悲しかったですね。
北朝鮮でいろいろ亡くなった人たちのこと、まだ残っている人たち、その人たちのことを考えをしたら、思い出したら、何だかね、嬉しくなくてね。
悲しくて、そう何だか複雑な気持ちで、自分だけが幸せになって(他の人が)気の毒なって、そういう感じがしました。
※野口氏
何十年ぶりかに帰ってきて、日本は変わりましたか?
★Y氏さん
昔の姿って全然ないですね。
私が何十年間も北朝鮮にいて、1日も忘れることなく。
夜中に寝ていても、「二度と帰れないんじゃないかな」と思ったら気違いみたいに寝て起きて、真っ暗な所に座ってました。
必ず帰る、どうして帰るのか」っていろんなこと考えてましたね。
それほど恋しかった日本なんですけど。
帰ってみて、自分の「故郷」に行ってみたんですね。
私が幼い頃、夏には川にいつも行って泳いでいたんです。
その川の水の色がまた違っていました。(笑い声)
川の流れも、変に曲がって昔の姿は全然なかったんですけど。
神社に行って、神社の境内でソフトボールをして、バットを振った時に梅の木に引っかかってバットがなくなって大騒ぎしたんです。
その梅の木がそのまま残ってました。
それから、その神社の横に椎の木があったんですね。
私は小さい時から静かな所が好きなもんで、時々一人で行って、椎の実を拾ってたんです。
その木もありました。
それがね、その椎の木があるかな?と思って探しながら。
これがそれだけ恋しかったのかな?死ぬほどほんとに、気が狂うほどに恋しかったのかな?
私のふるさとってここだったのかな?と、いろんなこと考えながら。
一緒に来られなかった兄弟のこと。
私を頼って来ながら豆満江で死んでしまった息子のこと。
いろんなことを考えて、椎の実を握って泣いてしまいました。
※野口Q
今まだ北朝鮮に家族が残っているということで、とても複雑な事情もあると思いますが。
この北朝鮮のことですね。
厳しいこと言えない事情があるかもしれませんけど。
まぁ希望的な観測でいいますと、どうなったらいいと思いますか?
最後に。
★Yさん
私は政治に対してはあまり関心がないんですね。
興味がないんですけど、私が1度目(の脱北中)に中国から北朝鮮に拉致されていったんですね。
中国の公安に捕まるんじゃなくて、北朝鮮から保衞部から直接来て直接捕まって送還されました。
その時私、考えたんですね。
「こういう具合にして、日本人たちも捕まっていったんじゃないだろうか」って。
私はこういう具合に捕まったんだけど、いろんな具合で人間を拉致していく、そういう人たちは何と言うか、一口で言うとプロですね。
どんな国に行っても、悪いことを幾らでもできる人たち、こういう具合にさせた人、またこういう具合に行動を取る人、みんなバカじゃないかな。
まあ、北朝鮮だからって、全部が全部悪くはないんです。
そん中でもいいとこあるんです。
人情が厚いんですね。
お互いに助け合う、貧乏な人に、私もそうやってたんです。
「あそこの家、今日は食べ物がなくって、みんな寝込んだですって」と聞けば、何か残り物持って行ってやるとか。
お互いに助け合うという人情のために、少しでも今、生き残ってるんじゃないのかと思いますね。
日本には、それが不足と思いますね。
隣の人は誰やら、他人のことはもう絶対関係ないっていうか。
いいところもあるけれども「なんだか冷たいな」と感じることもありますけど。
まあ、人種によっていろんな人がいると思いますけど。
私の考えでは、政治的なことは話したくないんですけど、(北朝鮮のあの体制は)まあ長くはないと思います。
※野口氏
わかりました。
もちろん拉致の被害者の方とか、特定失踪者の方が帰ってくるのは、当然なんですが。
こういった脱北者の家族の方たちも、無事に日本に帰ってこれるようにですね。
ぜひ私は望んでいます。
この辺で終わりにしたいと思います。
どうもありがとうございました。
(拍手、退出するYさんにもう一度拍手)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
このテキストは、原良一氏提供のテキストを元に話の花束ぴろんさんが再構成したものです。
原さん、ぴろんさん、ありがとうございました。 (momoedake・金木犀)
☆野口孝行氏のあいさつ
こんにちは。
北朝鮮難民救援基金の野口です。(拍手)
いつも神奈川の会にはですね。
私たちの団体は、難民の救援について活動している団体なんですが。
いつもご協力をいただいて貴重な時間をいただきまして、ほんとに会の方、そして皆様にいつも感謝しております。
ありがとうございます。
脱北者の方と話をする前に、ちょっとお知らせがありまして、8月1日ですね。
「北朝鮮難民と人権に関する国際議員連盟とNGOの会議」というのが予定されていまして、皆様のお手元にあります、私たちの会報にもいろいろ書いてあるんですが。
難民問題に関係している団体、そして救う会、特定失踪者問題調査会等々NGO、国際議員、各国の議員さんが集まって会議をします。
興味がある方はたくさんいらっしゃると思うので、注目していただきたいと思います。
それとですね、7月31日ですが。
チラシが入っているので、ご覧になられた方もいらっしゃると思いますが。
「ソウル・トレイン」というですね。
脱北者が中国まで逃げてきて、そしてその人たちがどうやって韓国までたどり着くのか、というドキュメンタリー映画を、アメリカの監督が作りまして、それを日本で上映する会というのが、日本であります。
7月31日に文教区民センターで行われるんですが、興味のある方は、ぜひ足を運んでいただきたいと思います。
これから脱北者の方とお話をするんですが、マスコミの方にお願いがあるんですが。
多くの脱北者の方がそうであるように、まだ北に家族が残っている関係で、こちらの日本にたどり着いたことがわかると、(北にいる)家族に害が及ぶ恐れがありますので。
申し訳ないですが、顔は映さないようにしていただきまして。
公の場で出す場合は、音声の方も変えていただきまして、顔も一切映らないようにしていただきたいと思いますので、よろしくお願いいたします。
☆脱北者Yさんの証言(聞き手:野口孝行氏)
(会場脇より脱北者Yさんが登場、正面席に着席)
※野口氏質問(以下野口氏)
それでは。
お話するのが、まだ慣れていないということで、私がきっかけみたいな形でお話をうかがいたいと思います。
まず、最初に聞きたいのは、先程の1960年代に帰還事業で向こう(北朝鮮)に渡ったそうですが、その時の乗った時の様子と、何歳くらいの時に北朝鮮に行ったのかと言うことをちょっとお話しください。
★脱北者Yさんの回答(以下Yさん)
私は日本の大阪で生まれました。
日本で教育を受け日本の学校を卒業して日本で就職して、18歳の時に父母に付いて北朝鮮に行きました。
それから北朝鮮に着いた途端に「ああ、北朝鮮に行ったのは間違いでだった」とそれを感じました。
どうしてか感じたかというと、日本で聞いた時は
「朝鮮の国は、地上の楽園で夢のような良い国で、仕事をしなくても食べていける。
勉強はただで、病院もたただ」
と、そういういろんな宣伝に騙されて、うちの父母たちは正直一本で。
そう言う人たちの宣伝に本気になって(北朝鮮に)行くために、私は行きたくないのに連れていかれたというか、父母が行く所にしょうがなく行ったのです。
行ってですね。
一番初め船が着いた途端に「間違ったな」と思って、改めて話したんですね。
「この船で日本へ帰して下さい。私は日本に帰ります」
と。
それで、(北朝鮮に)帰る時は、「絶対(日本)に帰ることが出来ない」ということを知らないで行ったんですね。
行ってみて、気に入らなかったら日本に帰れるものだ、とそういう気持ちで行ったんですけど。
着いた途端に、日本に帰ると言ったのを、絶対にそれは出来ないということがわかって、その日から日本に帰るのを夢に見て、
「いつかは必ず自分が生まれて育った日本に帰るんだ」
とそういう具合に北朝鮮に生きました。
※野口氏
実際に船に乗ってですね。
北朝鮮に着いた時に、何を見て何を感じて、この国は言われていた・宣伝されていたものとは違う、と具体的に思ったのですか?
★Yさん
私たちを迎えに出てきた大学生たちの服装とか、顔色を見て、日本では見たことがないような質の悪い服装をして。
人間たちの顔色というのは、栄養失調に近いような。
その頃から北朝鮮というのは食糧難に遭っていたようでしたが。
私は、何のために人間の顔はこのようななのかというのは知らなかったんです。
とにかく日本では見たことのないような人たちだなと。
それから(北朝鮮の)山には木が全然ないんですね。
全部裸なんです。
だから国が豊かではない、ということを感じました。
※野口
それで今はですね。
いろいろな報道、テレビなどで「あの国は貧しい」ということをみんなが分かっていると思うんですけど。
ほんとにその時は、宣伝で北は豊かな国だどいうふにう言ってたと思うんですけど。
疑いとかそういったものは一つもなかったんですか?
ほんとにすばらしい国だと思って、あの当時みんな行かれたんでしょうか?
★Yさん
私が日本にいる時、「朝鮮」という画報があったんですね。
その画報を見て、女がツルハシを振るって仕事をするのを、また女がみんな農業をやっている姿を見て。
なんだかおかしいな?とは思ったんですけど。
まさか嘘は言わないだろう、悪い所には送らないだろうと。
まあ、人を信じることが悪かったのかも知れませんけど(笑)、信じて(北朝鮮に)行ったのは本当です。
※野口氏
それで結局向こうに着いてですね、中国の国境に近い場所へ配属されたという事ですが。
実際、生活になじんでいく時のですね。
向こうの生活、一年一年、年を越すにつれて、いろいろ辛いことがあったと思うのですが。
日本を思いながら。
その中でも特に恋しかったものとかですね、これはなれるのが大変だったという向こうの生活は何でしょうか?
★Yさん
朝鮮に行って一番嫌だったことは、改めて学校に入って「(朝鮮の)言葉と字を習わなければ」と思って学校に入ったんですね。
それが、その教育の仕方が気に入らなかったのです。
というのは、日本とアメリカに対しては、私の知っている日本ではなく、とても悪い国で。
アメリカも悪い国で。
朝鮮だけが良い国だと。
そういう教育の仕方は間違っているんじゃないか?
こういう形で子供たちを教育して育てて、何がその中で偉い人が現れるのだろうかと思いました。
「私が見た日本はこんな悪い国ではなかったのに、どうして日本はこんなに悪い国として子供を教育するのに当たり前のようにしているのだろう」と。
また、それを聞く子供たちも、学生たちも教わるものが本当に悪い国だと思われるもので、私が日本から来たというので、日本について私にいろいろ聞いてくるのです。
それに対して正直に話すことが出来ないんですね。
「言論の自由」がないというのが一番苦しかったです。
※野口氏
それで、日本のことを考えながら生活していったと思うんですが。
自由にものが言えないこともありますし。
何か、こう日本のもので恋しいいなぁと思ったもの、ものとかそういった物で何かありましたか?
★Yさん
私たちが何十年も北朝鮮で耐えてきたというのは、日本で教わった童謡とか。
「うさぎ追いし、彼の山」(故郷)そういう童謡とか。
歌手たちの歌(歌謡曲・流行歌の事か?)とか、そういう歌の文句を聞く度に力をつけて。
「頑張って日本に帰るまで、死なずに生きよう」と。
それで帰国者たちが、お互いに励まし合って、苦しい時は童謡とか歌を歌って、それで耐えてきた。
それが力になりました(徐々に涙声になる)。
皆さんはここ(日本)で生まれて、ここで育ってそのまま自分に国にいるから分からないと思いますが。
一時この国を離れたとき。
もの凄く地獄のような所に行ったら、小さい時に覚えた童謡はとっても懐かしく、また自分の通っていた学校の校歌が、自分には本当に力をつけてくれました。
※野口氏
そういう状況でくらしていて、60年代くらいはまだ食べる物があったと思うんですが。
90年代の半ばに向けて、どんどん食糧事情はどんどん悪くなっていったと思うんですけど。
食べ物が減ってきているなというのは、どういう形で差し迫るような変化がありましたか?
★Yさん
(北朝鮮は)全てが全部配給制度なんです。
味噌・醤油はもちろん、靴、布、全部が配給で(配給)カードをくれるんですね。
(そのカードを)持っていって配給を貰うのも1ヶ月に2回、15日分の配給を貰うようになっている。
90年代に入って、それまで当たり前に行われていたその配給ができないんですね。
それでも94年までは、金日成が亡くなるその年までは、もらえなかった配給の(不足分は)年末に貰える年もあったのですが。
(金日成が死んだ94年の)その後からは、(年末の補填は)ぜんぜんなくて。
くれないものと思うようになったのが、97年からは、だんだん人々が(飢えて)死んだとか、食べる物がなくて人を殺して食べたとか、変な評判が出るようになったのが、96年・97年度からでした。
※野口氏
Yさんの住んでいた所には、他にも日本からの帰国者の人たちがいたわけですよね。
その皆さんは、どのように食べ物を調達して、くらして工夫がいろいろあったと思うんですけど、どのような工夫をしてみんな生きていたのですか?
★Yさん
北朝鮮という所は山火事が多いんですね、どうしてかしら?
その山火事になったら、山の木が燃えてしまうんですから。
その木の無い所には、自分が行って、畑を作ってトウモロコシとかジャガイモとかを植えてもいいことになってたんです。
それも初めはね。
90何年度だったか、それまではそれもできないようになってたんです。
だけど、だんだん人間が餓死するようになったもんで、空いた土地へ行って、自分の力で耕して食べることを許可するという法ができたもので、力のある人たちは山へ行って、作物を植えて、自分の力で食っていくと…。
そういう方法で早くから始めた人たちは、餓死ということはなかったんですけど。
力がなくてそういう工面ができない人たちは、配給所にばっかり頼って、毎朝ご飯食べたら配給所の前に行って座って、配給くれるのを待ってる人たちは、段々と倒れてしまったんです。
早めに畑へ行って、自分の力で耕して食っていくという人。
それから動物、豚とか山羊、そういうのを家で養って、栄養が足りない時には潰して食べるとか。
そういう具合に暮らすようになって、人間たちがだんだん知恵が回ってですね。
餓死しないように気をつけて、頭を回し、自分の力を頼るようになってきました。
国を頼るんじゃなくて、自分の力を頼って自分で生きていくのだ、とそういう考えを早くした人は生き残っていると思います。
※野口氏
住んでいらしゃった所に、他にも日本から帰っていった人たちがいるということですけれども。
ういった人たちとお付き合いがあったと思うんですけど、その人たちとは、普段は日本語で会話をしたりするんですか?
★Yさん
はい、そうですね。
大抵は帰国した人たち同士が集まって、お正月とかお盆に集まって。
無いながらでも一杯飲んで、冗談を言ったりはするんですけど。
北朝鮮の地元の人たちと一緒に馴染めない仲に、その人たちに変な具合に政治的に引っ掛かるような話をしたら、(当局に)言い伝えるんですね、その人たちは。
だから帰国者同士では、そういうことは絶対なかったんです。
(お互い)心を広げて「日本に帰りたいな」とか「金日成いつ死ぬのかな」そういうことを言っても、無事でしたから。
そういう中で、日本人妻の人たちは特に生活力がないのですね。
商売をすることも知らないし、畑に行って何かを作るっていうことも知らないし。
配給所の前に行って、じっと座って待ってるのが日本人妻でした。
※野口氏
それっていうのは、つまり、(日本人妻は)受身というか。
自分から何か生き延びるためにやるというようなことが、出来ないような状況だったんでしょうかね?
★Yさん
畑を耕すには力がいるんですよね。
(苦笑しながら)腹が減っては何も出来ないじゃないですか。
だからね、悪いこともしなければならないんですよ、時にはね。
北朝鮮はみんな協同組合といって、国で農業をしてるんですね。
だからそういう農業組合の作物なんかを、泥棒して食べる人もいるんですけど、帰国者とか日本人妻という人たちは泥棒が出来ないんですよね。
もう正直一本で。
「とにかく待っていたら(国が配給を)くれるだろう」と、そういう具合で死んでしまう人が多かったんです。
私たちの家は日本に親戚がいて仕送りがありましたから、そんなに苦労はしなかったんですけど。
日本人妻たちには日本から全然何もがなかったものですから、その人たちは、正直バカ一本で配給所にばかり頼って。
とにかく貧乏して苦労して、そういう人たちを私は沢山見ました。
※野口氏
そういう人たちというのは、やはりみんな、亡くなってしまう人たちも多いのですか?
★Yさん
日本人というのは特徴が、とにかくあきらめが早いんですね。
これ以上駄目だと思ったら自殺してしまうんですよ。(会場からため息が漏れる)
首吊るとか、川にはまって死ぬとか、ガスを、あそこはガスってないんですね。
石炭ガスです。
そこに鼻をつけたまま死ぬとか。
まあ「死なずに、どうにか日本へ帰ろう」という考え方をするんじゃなく、諦めててしまうんですね。
それが私、とっても残念でした。
自分の家に食べ物がない時は人の家に借りて食べるとか、そういうことを考えないんですね。
恥ずかしく思うのか?
とにかく、同じ「帰国者」でも日本人妻たちの生活の仕方というのは、日本で暮らして教育を受けたそのままに、他人の物には欲を出さないこと、嘘をつかないこと。
私もそういう教育を受けましたけど、北朝鮮にいってはそれが通じないんです。
時によっては悪いこともする。
協同組合のジャガイモも、私泥棒したこともありますけど、日本人妻たちはそういうことが出来ないんですよね。
ですから、豆満江にはまって死んだ人もいましたし、首吊って死んだ人もいます。
その人も私と同じ名前でしたけど、そういう人たちを見るとね、私、同情しませんでした。
「残念だね、なんて馬鹿だかね」と。
ま、生きていたおかげで、私こういう具合に日本に帰ることができたんですけど、その人たちのことをつくづく考えますね。
「死なずに、どうにか一生懸命やって帰ってくれれば良かったのに」と。
※野口氏
そういう強い気持ちがあって、中国に脱北したわけですけど。
一度捕まったことがあるという話しですけど。
その時はどういう状況で捕まって、捕まった後はどうでしたか?
★Yさん
それをここで話しても、皆さん想像つかないと思いますけど。
私は97年度から中国に渡って、日本に帰るように一生懸命やっていたんですが。
その間に2回捕まりました。
運がよく、悪運が強いものやら、今まで命があったんですけど。(笑い声)
中国で捕まった時は、北朝鮮よりはマシですね。
食べるものは食べさせてくれるんですから。
だけど北朝鮮というのは当たり前のように人民たちに食べるものがないんですから。
脱北して自分を裏切ってた政治犯に対する待遇というのは、食べ物っていうのは全然ね。
人間の食べるようなもの、ここでは想像つかないと思います。
私の方はちょっとマシだったんですね。
だけど(一緒に捕まった)私の子供たちは、(北朝鮮に捕まって拘留中)食べられないような物をくれる物で、15日間一食も食べなかったそうです。
でも死ななかったんです、水は飲むものですから…。
人間というのは、なかなか寿命が、そう簡単には死なないんですよ。
15日間一食も食べなくて、それでも水飲んで死なずに辛抱したらしいです。
(当局側がこれでは)死ぬかと思って、無理に食べろと命令して、そういう具合にしてどうにか生きて、また中国に渡ってきました。
※野口氏
2回目に中国に出て来て、その時も捕まってしまうんですね?
その時は、捕まってどういうお気持ちでしたか?
★Yさん
その時はもう最後だと思いましたね、二回目だから。
その時は息子と一緒に捕まったんですけど。
(息子は)手錠を後ろ手にかけられ、足にも足枷をかけられて、それからロープでも極める(=縛るの古い表現)んですね、絶対に逃げられないように。
私にはそこまではしなかったんですが、若い人たちにはこういう具合に捕まえていくんです。
中国の警察というのは、捕まえていくのは北朝鮮よりもっとも酷いんですよ。
その点、北朝鮮は手錠もろくろくないんですから(笑い声)、手を極めるのも紐で縛って…。
賢い子たちは、どうにか(解いて)逃げる若者たちもいるらしいけど。
中国は絶対にそういう具合に逃げられないように、(笑いながら)手も足ももう全部、そしてもう、「こりゃあもう死刑場に行くのかな」と思ったんだけど。
よく考えてみたら「私、そんなに悪いことをしていないのに、そう死ぬわけがないだろう、生きるまで生きてみよう」と思ったのが刑務所でした。
※野口氏
それで2回目に捕まった時は、4ヶ月中国の留置所というか、収容されたわけですけれど。
それでですね、運良く日本の外務省との連携もあって日本に帰ってこれたわけですけれど。
40年ぶりくらいに帰ってきたわけですけれども、実際今帰ってきてまだ1年経ってないですけど。
初めて、何十年かぶりに帰ってきた時の、ずーっと何十年も思い続けてきた日本、最初どう思いましたか?
★Yさん
一番初め、中国で立つ時に、中国にいる日本大使館の人が来て、「行きましょう」って言うから、―中国のチャンチョン(音訳)という所です。
「どこに行くんですか?」って聞いたら「日本へ行くんです」と言われた時、私は聞き間違えたのかと思ったんですけど。(苦笑する)
とにかく着いた所が成田でした。
成田に着く前、日本が見えた時の感じっていったら、嬉しいというよりも悲しかったですね。
北朝鮮でいろいろ亡くなった人たちのこと、まだ残っている人たち、その人たちのことを考えをしたら、思い出したら、何だかね、嬉しくなくてね。
悲しくて、そう何だか複雑な気持ちで、自分だけが幸せになって(他の人が)気の毒なって、そういう感じがしました。
※野口氏
何十年ぶりかに帰ってきて、日本は変わりましたか?
★Y氏さん
昔の姿って全然ないですね。
私が何十年間も北朝鮮にいて、1日も忘れることなく。
夜中に寝ていても、「二度と帰れないんじゃないかな」と思ったら気違いみたいに寝て起きて、真っ暗な所に座ってました。
必ず帰る、どうして帰るのか」っていろんなこと考えてましたね。
それほど恋しかった日本なんですけど。
帰ってみて、自分の「故郷」に行ってみたんですね。
私が幼い頃、夏には川にいつも行って泳いでいたんです。
その川の水の色がまた違っていました。(笑い声)
川の流れも、変に曲がって昔の姿は全然なかったんですけど。
神社に行って、神社の境内でソフトボールをして、バットを振った時に梅の木に引っかかってバットがなくなって大騒ぎしたんです。
その梅の木がそのまま残ってました。
それから、その神社の横に椎の木があったんですね。
私は小さい時から静かな所が好きなもんで、時々一人で行って、椎の実を拾ってたんです。
その木もありました。
それがね、その椎の木があるかな?と思って探しながら。
これがそれだけ恋しかったのかな?死ぬほどほんとに、気が狂うほどに恋しかったのかな?
私のふるさとってここだったのかな?と、いろんなこと考えながら。
一緒に来られなかった兄弟のこと。
私を頼って来ながら豆満江で死んでしまった息子のこと。
いろんなことを考えて、椎の実を握って泣いてしまいました。
※野口Q
今まだ北朝鮮に家族が残っているということで、とても複雑な事情もあると思いますが。
この北朝鮮のことですね。
厳しいこと言えない事情があるかもしれませんけど。
まぁ希望的な観測でいいますと、どうなったらいいと思いますか?
最後に。
★Yさん
私は政治に対してはあまり関心がないんですね。
興味がないんですけど、私が1度目(の脱北中)に中国から北朝鮮に拉致されていったんですね。
中国の公安に捕まるんじゃなくて、北朝鮮から保衞部から直接来て直接捕まって送還されました。
その時私、考えたんですね。
「こういう具合にして、日本人たちも捕まっていったんじゃないだろうか」って。
私はこういう具合に捕まったんだけど、いろんな具合で人間を拉致していく、そういう人たちは何と言うか、一口で言うとプロですね。
どんな国に行っても、悪いことを幾らでもできる人たち、こういう具合にさせた人、またこういう具合に行動を取る人、みんなバカじゃないかな。
まあ、北朝鮮だからって、全部が全部悪くはないんです。
そん中でもいいとこあるんです。
人情が厚いんですね。
お互いに助け合う、貧乏な人に、私もそうやってたんです。
「あそこの家、今日は食べ物がなくって、みんな寝込んだですって」と聞けば、何か残り物持って行ってやるとか。
お互いに助け合うという人情のために、少しでも今、生き残ってるんじゃないのかと思いますね。
日本には、それが不足と思いますね。
隣の人は誰やら、他人のことはもう絶対関係ないっていうか。
いいところもあるけれども「なんだか冷たいな」と感じることもありますけど。
まあ、人種によっていろんな人がいると思いますけど。
私の考えでは、政治的なことは話したくないんですけど、(北朝鮮のあの体制は)まあ長くはないと思います。
※野口氏
わかりました。
もちろん拉致の被害者の方とか、特定失踪者の方が帰ってくるのは、当然なんですが。
こういった脱北者の家族の方たちも、無事に日本に帰ってこれるようにですね。
ぜひ私は望んでいます。
この辺で終わりにしたいと思います。
どうもありがとうございました。
(拍手、退出するYさんにもう一度拍手)
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このテキストは、原良一氏提供のテキストを元に話の花束ぴろんさんが再構成したものです。
原さん、ぴろんさん、ありがとうございました。 (momoedake・金木犀)