雅子皇太子妃・徳仁皇太子・愛子内親王の現状は”第二の女系天皇問題”安倍元総理暗殺は第3の敗戦、愛子天皇は終末の敗戦だ

※当ブログでは明治典範にも違反する生前の譲位に抗議し、ブログタイトルは違法即位後も同タイトルとします。

#天皇超法規化 → #違法譲位 の原点かと。1月3日は #明治維新 #王政復古の大号令 というサッチョウGHQによる国家転覆の日。

2019年01月03日 20時39分59秒 | 国家・教育・秩序・他保守総合/ツイッター投稿一覧
昨年の今日もこの件に触れ、折に触れて批判してきたが、1868年(慶応4年)1月3日、西郷隆盛率いる薩摩藩を中心とする軍が、御所を警護する会津藩を追い出して包囲し、クーデターを決行した。
王政復古の大号令である。
このテロ部隊は、薩摩(外様)・土佐(外様)・広島(譜代)・越前福井松平(親藩=徳川一族)・尾張徳川(親藩=徳川一族)で構成されていた。
そして、先帝・孝明天皇に朝敵とされていた長州藩を勝手に赦免し、大政奉還後、当面の暫定政権と認められていた幕府と徳川本家を潰しにかかり、先帝に信頼された会津藩を賊軍に仕立てたのである。
そして成立したのが「サッチョウGHQ」

左は明治を戦争の始まりと言いたいようだが、筆者の見解は逆であり、この明治の政治テロは、後年のGHQによる日本占領とそれまでの日本全否定と驚くほど重なることを改めて申し上げたい。

最大の違いは、天皇がどちら側にいたかである。終戦時の昭和帝は日本側におられたが、お若き明治大帝には、革命テロ軍に担ぎ出された。
奴らは、天皇を超法規化することにより、徳川家や会津藩を朝敵にし、日本を蹂躙していったのである。

その後、明治憲法でも帝を軍服で穢した(軍が悪というのではなく、おかみに民のようなことをさせたという意味)
軍の統帥権を総理大臣でなく天皇の直属にしたのは愚策であった。これには幕府政治の再来を嫌ったのも一因だったらしいが。

こういうところが、一部保守の「天皇>法」思想の原因ではないだろうか?
武家政権特に江戸時代は、天皇朝廷と言えども法で縛られた。
明治典範でも皇族処罰が規定されていたのに、やたらと「不敬」を唱える御仁らにはそれが見えないらしい。

現在の天皇は「生前退位」という違法譲位で明治の掟を破り、法を曲げた。現行憲法・典範にも違反した。
まるで三権を越えた左翼専制権力。軍国主義などではなく、人権擁護法案のような意味で。
なお、この生前退位を、江戸時代までに存在したからと正当化する向きがあるが、当時は一世一元も終身在位も法で定められてはいなかった。法で定められているのに背くのとはわけが違う。
そんなことを許すなら、反対するためなら何でも正しいという、沖縄の連中と同じではないか。


話を戻そう。
ひとつ書き忘れていたが、幕臣にも小栗勘定奉行という素晴らしい人物がいた。彼は新政府を名乗るテロ軍により、東條英樹のごとく罪を着せられて処刑されたのである。徳川慶喜侯は、後年貴族院議員となって名誉を回復された面もあるのだが。
150年前の今も、戊辰戦争という東国大空襲のさ中だった。

まとまりのない文章になってしまいました。本当はもっと早く書きたかったのですが、ヤフーコメントで長時間論連していたためこの時間になってしまいました。明日は別件でどうしても書きたいことがあるので、今日中に投稿したかった次第です。


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