トランペットを始めた動機は不純だった(2)
前回の記録・観察ノートのリンクはコチラ 『トランペットを始めた動機は不純だった(1)』(https://blog.goo.ne.jp/bule1111_may/e/2c8071b46b182f9089b37c5bb161fb5)
ここではトランペットを吹くことになるまでを、自分ごとなので申し訳ないが記録している。前回までのお話では中学校のバスケットボール部の腹筋練習に嫌気がさして退部し、たまたま耳にしたブラスバンド部の演奏に心誘われ入部したが、吹いてみたいと思っていたトランペット・パートはすでに埋まっており空いていた大太鼓を担当させられ毎日行進曲の二拍子を叩いていたというところまで書いた。次からつづきのパート2が始まります。
さて、秋になると三年生の先輩たちがブラスバンド部を引退することになり各楽器の代替わりが始まった。いよいよトランペットを担当する時が来たのだと一人密かに期待しながら田んぼ道をスキップしながら(おおげさだが気持ちはその感じ)学校に向かった。が、結局かねてより引き継ぐことになっていたユーフォニアムを担当することに変わりはなかった。トランペットの担当は上手い人が数名いたし自分がユーフォニアムを吹かないとパートに穴が空いてしまうのでわがままを言えるような状態ではなかった。
ユーフォニアムは低音パートの楽器だが曲によってはテナーサックスなどの中音域の旋律を演奏することもあり、また主旋律に対してユーフォニアムに裏旋律を吹かせる曲もあり吹いていて楽しくなってきた。毎日技術を磨く個人練習を続け、全員で一曲仕上げるために合奏練習を繰り返しているとおもしろさも増しユーフォニアムが好きになった。
二年生になりパートの代替わりも落ち着いた頃、みんなの成果を発表するつもりで吹奏楽コンクールの出場にエントリーした。ところが三年生たちが模擬試験日と重なり参加できなくなってしまった。せっかくまとまりが出てやる気もアップしてきたにも関わらずコンクールに出られない、みんなガッカリし練習にも来なくなってしまった。しかしもともと三年生の人数が少なかったこともあり、何名かで顧問の教師に嘆願しに行き二年生以下だけでも出場したいと主張し職員会議で許可を得た。昭和の東京オリンピックよろしく参加することに意義があるので演奏ができればよかったのだ。しかしコンクールでは予想もしなかった結果で「努力賞」として入賞することができ、みんなで大喜びした。コンクールへの出場は2度目だったが、少ない人数(当時の人数規定では25名以下のバンドは県大会には出られないB部門にエントリー)ながらアンサンブルがうまくいき各パートがきちんと吹き切った点が評価されたようだ。三年生には申し訳ないが二年生以下で入選することができたことが誇らしく楽器をやっていて良かったとあらためて思った。また、この成果への尽力がみんなとの信頼関係に結びつきブラスバンド部の運営を代表する部長を任せてもらうことになった。
三年生になった。これまでと同じメンバーに一年生を加えいい演奏ができると思いコンクールでもさらに上を目指せると心の中で夢みていた。ところが、テューバを吹いていたY君がこの楽器はメロディーがなくておもしろくないという理由でブラスバンド部をやめてしまった。きっとクラリネットやトランペットが吹きたかったのだと思う。だがそんな個人のわがままを通すことが彼にはできなかったのだろう。新たにテューバを担当する人を決めなければならず三年生で会議を持った。しかし、すでに各パートともメンバーが落ち着いており当然ながら誰も手を挙げなかった。
というわけで、自分がユーフォニアムからテューバへと楽器を変更した。低音パートなのでそれが自然だと思ったし、練習を重ねテューバに慣れるのにそれほど時間はかからなかった。部長としてなんとかせねばならなかったのだ。けれど楽しかった裏旋律とはオサラバだし大きな楽器同様マウスピースもサイズが大きくなり、いよいよトランペットから遠のいてしまい内心残念に感じていた。そんな時、気持ちを前向きにしたくて家族の知り合いから使い古しのトランペット(ドイツ製ヒュッテル)を5,000円で購入した。当時の中学三年生にとっては高価な買い物であった。平日は学校でテューバを吹き、休日は家の近くの田んぼで名曲集の楽譜をトランペットで練習した。この年のコンクールはパートの準備不足もあり入賞を逃したが悔いはなかった。
高校生になると(1)で前述した通り、クラシックにつながるフレンチホルンを自分の楽器として選び、ジャズトランペッターからまたまた遠のいた。大太鼓、ユーフォニアム、テューバ、フレンチホルン、時々トランペットという遍歴と中学時代に部長として指揮棒を振ったり各パートに耳を傾けたりした経験は、その後の人生に大いに役立っている。高校時代も同様に吹奏楽部の部長になり同じような日々を送り音楽三昧の毎日を送ったのだった。
高校を卒業した三月。音楽漬けの日々に相応しく浪人が決まっていた。(音楽漬けだったが音楽大学に進む気はなかった)大学のモダンジャズ・サークルでトランペットを吹くつもりだったがそれもお預けになった。ヒュッテルのトランペットは卒業と同時に後輩に3,000円で売り払った。自分はテレビの洋画劇場で見た映画『五つの銅貨』のレッド・ニコルスに憧れ、当時ヤマハから始めて発売されたショート・コルネット(英国式ブラスバンドで使われるコルネットは主にショートコルネット。このほかにアメリカ式でジャズ・吹奏楽に使われるものは形の若干異なるロング・コルネットがある。)を購入した。その後、東京で下宿暮らしを始め予備校に通いながら、高田馬場のビッグボックスの中にあったビクター・ミュージック・プラザの無料貸しスタジオでこの楽器を吹きながらジャズの沼にハマっていった。(ジャズの沼にハマる話はいずれそのうちするのでここでは割愛する)そしてこのショート・コルネットと大学入学後もしばらく付き合い、純粋にラッパ吹きになったのは社会に出てからだった。腹筋トレーニングが嫌でトランペット吹きを目指してから何年も過ぎていた。
(おわり)