Run, BLOG, Run

http://d.hatena.ne.jp/bluescat/

[数] ムーミン

2004年06月03日 23時17分11秒 | 数字 Q
 なんとなく、新 category. 数字にまつわる小話でも、ということで、[数字 Q]。

 もちろん(?)、Rolling Stones や Creedence Clearwater Revival のカバーで有名な、Dale Hawkins の ‘Susie Q’ をもじったもの。



 さて。

 今日、六月三日は、「ムーミン」 の日、であるが。

 子どものころ、家に、『ムーミン 第0話』 のビデオテープがあった。 なぜか、0話だけ。 夢を喰うバクの話だった。

 じつは、きちんと、『ムーミン』 を観たことがない私は、0話だけ、何回も何回も、繰り返し観ながら、このあと、どんな物語が繰り広げられていくのだろう? と想像していた。

 ゼロからはじまる物語を、じぶんのなかで、果てしなくふくらましていたのである。

 いずれ、きちんと物語のつづきを観てみよう、と思いながら、時が流れてしまった。 なんとなく、このまま、知らずにしてもいいような、なんとしてでも観たいような、ふしぎな気持ちになるのであった。





 ちなみに。 「ムーミン」 の作者、Tove Jansson 氏は、二〇〇一年六月二十七日に、八十六歳で永眠された。 Tove さんを偲んで、かなしみにつつまれた日のことを、つい昨日のことのように思い出す。





 参照:
 『ムーミン公式サイト』
 (「村民登録」 ができるもよう ... )
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東京は夜の七時 (二)

2004年06月03日 19時51分03秒 | 現実と虚構のあいだに

 「東京は夜の七時 - 前編」



 渋谷から、***へ。

 午後七時過ぎ、渋谷から新宿方面の山手線に乗るのは、二人にとって憂鬱だった。 尋常ではない混みようだし、各駅での人の乗り降りが激しすぎるからだ。

 渋谷駅の改札を通りながら、ふと、彼が言った。 「埼京線って混んでるかな」

 そうだ。 ***ならば、山手線以外に埼京線でもいけるのだ、と気づくと、彼女は埼京線に乗ることに賛成した。 ラッシュ時だから埼京線だって混んでいるにちがいないが、それでも山手線よりはましだろうと思った。 埼京線であれば、渋谷の次が新宿、新宿の次が池袋 ... と、山手線よりも停まる駅が少ないので、それだけでも気が楽である。

 そうして、二人は、山手線のホームよりも、ずっとずっと遠くにある、埼京線のホームへ向かった。 彼女は、まだ履き慣れていない、おろしたてのピンヒールの靴のために、いためた足をかばいながら、彼について歩いた。 ちょうど電車が止まっていたので、二人はすべり込むようにその電車に飛び乗った。 決してすいているとは言えなかったが、山手線に乗るよりもはるかに少ないストレスで、***まで到着することができた。 「***に来るの、ひさしぶり」 と彼女は言った。 「おれも」 と彼。

 今度は、彼が映画館の場所をきちんと頭に入れていたので、迷うことなく、無事、映画館に着いた。 午後八時だった。

 「もし、また満席になってたら、どうしよう」 彼女はどきどきしながら言った。 「だいじょうぶだよ」 と彼。

 受付へ向かってみると、閑散としていて、彼女は逆に不安になって、ちょっとたじろいだ。

 大人、二枚。 あっさりと購入できた。 「九時には入場できますので、そのくらいの時間に来ていただければ、大丈夫です」 とまで言われてしまうくらい。 並ばなくても、余裕で座れるらしい。 渋谷での完売、というのはなんだったのだろう、と二人は顔を見合わせた。

 ともあれ、チケットが購入できたので、二人は、映画がはじまるまでのあいだに夕食をとっておくことにした。 その街に来る機会がほとんどないため、知っている店がないし、あまり映画館から離れてしまってもしょうがない、ということで、二人は、映画館の周辺を見回してみた。 飲み屋か、ラーメン屋か、ファーストフード店しかなかった。 どれにもこころ引き寄せられなかった。 仕方ないので、ちょっと歩いてみた。 それでも、ハートに火をつけられそうな店は見つからなかった。 仕方なしに、近隣にあった、チェーン店であろうと思われるカレー屋に入った。 彼、チーズカレー。 彼女、レディース・セット。 レディース・セットにはデザートがつくのだ。 注文してから、あっというまにカレーが出てきた。 腹をすかした二人は、さっそくとばかりにカレーにありついた。 ―― まずい。

 「こんなカレーだったら、honey のつくるカレーのほうが、何倍もうまいぜ」 と彼は、ほんとうにまずそうにカレーを流し込みながら言った。 「こんなカレーと比べないで」 と彼女。 あまり料理はとくいではないが、じぶんのつくるカレーには、自信があるのである。 もっとも、じぶんのつくるカレーが、いちばんじぶんの好みの味だから、というのもあるにはあろう。

 まずいカレーを食べ終えると、彼女のデザートがでてきた。 杏仁豆腐ふうのプリンということである。 どっちなのか、はっきりしろい。 そんなふうに思いながら、彼女は、なぞのデザートをほおばった。 きっちり半分のこし、甘い物好きの彼に、わけてやった。

 彼は、「カレーよりは、うまいな」 とひとこと。

 二人は、食べ終えると、すぐ店を出た。 彼女は、「お口なおしに、アイス食べたい」 と言った。 まだ映画がはじまるまでに時間もある。 二人は、映画館のすぐ近くのファーストフード店に入った。 彼女はアイスクリームを、彼はあたたかいコーヒーを頼んだ。

 「コーヒー、おいしい?」 と彼女は訊いた。

 「まずい」 と彼。 「この街は、まずいもんばっかりだ」 吐きすてるように言った。

 「そう? 知らないだけで、さがせば、おいしいお店もあるかもよ」 と彼女。

 「だいたいおれは、この街が嫌いなんだよ」

 「どうして?」 とたずねる彼女に、彼は、その街にいやな思い出があるのだ、と言った。 なになに? と彼女が興味を示すので、彼は、数年前、その街のとある区域を歩いていたときに、なにやらあやしげな人につかまり、マンションの一室に連れて行かれたという話をした。

 「なんで、連れて行かれるの? マンションの一室でなにしてたの? どうやって帰って来られたの?」 と彼女は、また泣きそうになりながら、たずねた。

 「なんで、って、おれが元気すぎるから」 「マンションの一室で、二時間ほどお話を」 「知り合いのオヤジの名まえを出したら、『帰っていいよ』 って言われた」

 ファーストフード店を出て、映画館へと向かう道すがら、そうこたえられても、納得のいかない彼女は、「なんで元気すぎると、つかまるの? 元気って、なにが? もし、『帰っていいよ』 って言われなかったら、いまごろどうなっていたの?」 と、彼のうでに、ぎゅっとじぶんのうでを絡めながらたずねた。

 「さあな。 元気すぎるってのは、元気すぎるってことだよ。 もし帰って来れなかったら? ... 腰に赤いバンダナを結ばれて、どこかの埠頭に連れて行かれてたかもな」

 「腰に赤いバンダナをして、埠頭にいると、どうなるの?」

 「さあね」

 と、ごまかす彼に、彼女は追求しようとしたが、映画館の受付に到着してしまったので、それ以上は訊けなくなり、うやむやになった。

 午後九時五分。 受付のところで、入場者サービスとして、その映画にちなんだパッケージのビールをもらった。 無類のビール好きの彼女はよろこんだが、冷えていないため、がっかりした。 しかも、箱が映画にちなんだものであるだけで、中身は、キリンの発泡酒缶だった。

 場内に足を踏み入れて、座席のあまりのすかすか具合に、拍子抜けしながら、前から五列目くらいの、真ん中の島の、真ん中の座席を陣取った。 特等席だ。 荷物を置くと、彼女は手洗いに行った。 用を足し終わると、長い黒髪を念入りに梳かした。

 彼女が座席へ戻ると、彼は、会社から電話がかかってきたため、ちょっと電話をしてくる、と言って出て行った。 あとでかければいいのに ... と思いながら、彼女は彼の後ろ姿を見送った。 そのうち、予告編がはじまった。 彼女が、すでに劇場で観たことのある映画の予告だった。 予告は一本で終わってしまった。 レイト上映だからだろうか、と彼女は考えた。 そうして、本編がはじまってしまい、彼女は、ハラハラしながら、彼があらわれるのを待った。 こんなときなんだから、ちゃんと理由を話して、すぐに電話を切ればいいのに ... と思ったが、彼がそれをできない人だ、というのは、彼女自身、よくわかっていた。 彼は、いつでも、相手の話を真剣に聞いてしまうのだ。

 はじまって五分ほどたって、ようやく彼が戻ってきた。 彼女は、ほっと息をもらした。

 映画の内容は、単純明快であった。 いままで光のあたることのなかった、ソウル/ R&B のレーベルの 「モータウン」 レコード専属のバック・ミュージシャンに焦点をあてたもの。 インタヴューや当時を回顧する映像、彼らがバックをつとめた不朽の名曲を、若手から往年のシンガーが歌い上げるライヴ映像が、淡々とつづくのである。

 この映画を観ると、ロックンロールやブルースと同じように、ソウル/ R&B も、それぞれのミュージシャンに根ざしていることがわかる。 イントロをちょっと口ずさんだだけでも、つい身体が動いて、出だしを口ずさんでしまうのだ。

 かなわないよな ... と思いながら、彼女は、そういえば、The Beatles がカヴァーした ‘Please, Mr. Postman’, Rolling Stones がカヴァーした ‘My Girl’ なども、モータウンの作品だったっけ、と、頭のかたすみで考えた。 ジャンルなど関係ないのだ。 みな、ひとつの根なのだろう、と。

 数年前に世界的にヒットした、『ブェナ・ヴィスタ・ソーシアル・クラブ (Buena Vista Social Club)』 のように、存命しているミュージシャンたちが脚光をあびて、あちこち公演に出かけたりするようになるのかな ... と、彼女は考えた。 それはそれで、すばらしいことだが、そうなってほしくないような気もした。

 午後十一時。 映画が終わった。

 場内が明るくなって、彼のほうに目をやって、彼女は、すこし、おどろいた。 彼が寝ているようだったからである。

 「どうして? ずっと寝てたの?」

 「う、うん、ちょっとだけ ... 。 いやあ、でもいい映画だったよな」

 「まあ ... (よく言うわ)。 立てる? 大丈夫?」

 「立てない。 このままここで寝たい」

 「そっか。 じゃあ、二人でここで寝よっか。 そして、このまま会社に行くの」

 ... などと冗談を言い合っていると、劇場の係り員が場内の点検にやってきたので、二人は仕方なく表へ出た。 もうすっかり人が少なくなった通りへと、ふらふらになりながら。

 いまから帰れば、今日中にもう一本、記事が書けるかしら ... と彼女は考えた。 彼には内緒にしているが、彼女は blog を開設しているのである。 blog が、ここのところ、彼女の生活の大部分を占めるようになっていた。 むろん、彼のことがいちばんであるはずだが、日常の雑念やら、日々のさまざまな思いを記事にすることで、彼女は、満たされぬ表現欲求をうめているのである。 いわば、blog の記事を書くことが、現在の情熱の対象となりはじめていたのである。 せっかくだから、時間がたたないうちに、この映画の感想でも ... と、彼女は、頭のなかで記事をあれこれ組み立てていた。

 すると、彼が、「電車乗るの、やだ。 バスで帰ろう」 と言い出した。 まだまだこの時間では、電車が混んでいるのである。 彼女が、「この時間に、まだバスがあるかしら」 と言うと、「いちおう、バス停まで行ってみよう」 と彼。

 二人は、まるで、どこか異国からやってきた、孤独な連れ合いのように、手をぎゅうっと握りしめ合いながら、バス停をさがした。 しかし、彼女は頭のなかで、blog の記事のことを考えていたのだが。

 駅を何度か横切って、あっち行ったり、こっち行ったりして、ようやくバス停が見つかったのだが、彼女の予想どおり、バスは十時で終了していた。

 十一時三十分。 仕方なく、電車で帰ることになった。 じぶんのなかで、記事の組み立てが終わった彼女は、できたら今日中に記事をあげたいのに ... と、内心あせった。

 十一時四十五分。 彼女の家の最寄りの駅に着いた。 彼女は、思い切って、彼に、「ごめんなさい。 わたし、急いで帰ってもいいかしら。 今日中にやりたいことがあって ... 」

 「そっか。 なんか考えごとしてるな、と思ってたけど。 よし、走るか」

 二人は、彼女の住む部屋へといそいだ。 十一時五十分、到着。 彼女は、まっさきに PC の電源を入れた。 大あわててで映画の感想を書く。 さあ、いざ、記事を送信しようとしたとき、すでに十一時五十九分だった。 ああ、あと十秒。

 九、八、七、六、五、四、三、二、一 ..... 。 時間切れ。

 ... 彼女は、テキストエディタに下書きした、映画の感想の記事を一気に消去し、テキストエディタを閉じた。 そして、空虚な脱力感におそわれながら、彼のほうを向き直った。

 「ん? どうした? 間に合わなかったの? なんか、大事なメールでも出さなきゃいけなかったの?」 と、なにも知らない彼はたずねた。

 午後七時から何度も泣きそうになっていながら、彼女は、またも泣き出しそうになりながら、彼のほうに歩み寄り、彼の頭を胸に抱くと、「ごめんなさい、なんでもないの」 と言った。 「なんでもないの」

 「おれのことは、いいから、用事すませなよ」

 「ううん、もう、いいの」

 「なんで? さっきまで、死にそうなぐらい、あわててたのに。 ごめんな。 おれのせいで、帰りが遅くなっちまったな」

 彼女は、それ以上、なにも言えなくなった。

 彼女は、ただただ、blog よりもたいせつであるはずの彼の頭を抱きかかえていた。 彼はなにもわからず、そのまま身をゆだねていた。

 そうして、都会に生きるには、あまりにも純粋すぎる彼 ―― リチャード・ブローティガンふうに言えば、出来損ないの天使のような ―― と、plastic && concrete のなかで なんとか必死に生きていこうと もがきつづけながらも、なにかが足りない彼女の、東京の夜は過ぎていった。



 (完)





 BGM:
 Bluce Springsteen ‘It's Hard to Be a Saint in the City (都会で聖者になるのは大変だ)’
 Iggy Pop ‘Plastic & Concrete’
 Nick Lowe ‘How Do You Talk to an Angel’

コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東京は夜の七時

2004年06月03日 17時50分12秒 | 現実と虚構のあいだに

 午後六時四十七分。 渋谷センター街入り口の Starbucks Coffee まえ。

 彼との待ち合わせ時間に 二分遅れて、彼女はやって来た。 走ったために乱れた呼吸を整えながら、あたりをぐるりと見回して、彼を探した。 まだ来ていない。 いつものことだと、彼女は気も留めず、彼があらわれるのを待った。

 彼が待ち合わせに、五分、十分遅れてくるのは、ふつうであった。 せかせかしたり、あわてるのがきらいなたちだから、たとえば、交差点で信号が赤にかわりそうなんて場合でも、決して走らずに次の 「青」 を待つ。 電車が混んでいたりすると、平気で一本見送る。 歩いている途中、友だちから電話がかかってくると、立ち止まって話をする。 ―― 歩きながら話すのがいやなのだ。

 時間を上手に使っているつもりが、逆に時間にしばられてしまうのが いやなのかもしれない。 あわてずに、のんびりと、信号を待つあいだ、電車を一本待つあいだ、立ち止まって電話しているあいだ、彼は、周囲に目をこらす。 道行くひとびとの表情、髪型、服装。 ふと空を見上げて、雲の流れを追ったり、街路樹の緑を目に染み入らせてみたり。 聞こえてくる音にも耳をすます。 恋人たちのなにげない会話。 小学生が歩きながらうたっている歌。 車の音。 鳥の鳴き声。 ... 東京の空の下でも、彼は、じぶんのペースで、静かに呼吸しているのである。

 しかし ... 。 さすがに七時になっても彼があらわれないので、彼女はちょっとあせった。 いっしょに観る約束をしている映画が、七時から上映ということになっているからである。 彼の時間感覚を考慮して、十五分前に待ち合わせを設定したのに、あっさりとオーバーされてしまったわけだ。 彼女は、この日のためにおろしたばかりの靴のピンヒールをつかつかと音立たせながら、もう一度ぐるりと周囲を見回した。 すると、... いる ! Starbuck Coffee 店内のレジに並んでいる彼の後ろ姿が、窓ガラス越しに見えた。

 彼女はあわてて店内に駆け込み、彼の腕をそっととらえた。 「なにしてるの?! 映画はじまっちゃってるよ」

 「大丈夫だよ。 十分か十五分くらい、予告編やってるから」

 「でも ... 」 と、彼女が泣きそうになりながら訴えるので、彼は、コーヒーをあきらめることにした。

 映画館をめざして、ふたりは、渋谷の街を、突進した。

 午後七時の渋谷は、さまざまな人で入り乱れる。 道が人であふれかえって、ぼやぼやしていると、なかなか進めないのだ。 仕事帰りのサラリーマン。 これから 「お仕事」 に行くのであろうと思われる、濃い化粧をほどし、キツめの香水の匂いをふりまきながら歩く女。 個性的なファッションに身を包んだ、能面のような顔の少女。 うつろなくせに、なにかを求めてでもいるかのような 妙にぎらぎらした目と、いつも半びらきで 締まりのないくちびるを持つ女子高生。 居酒屋のティッシュ配りの男の子。 カラオケ屋の勧誘。 ホテル街へといそぐ恋人たち。

 やっとのことで、いちばん混雑している通りを抜けると、彼女は、息を切らしながら、おずおずと、言った。 「ゴメンナサイ、映画館の地図をプリントアウトしてくるの、わすれちゃったの。 たぶんこのあたりだと思うんだけど」

 「このあたりに映画館なんてあったっけ?」 と彼。

 「うん ... 。 電話番号はひかえてきたから、電話してみる」 と言って、電話をかけてみたものの、「混雑のため、音声によるスケジュールのご案内をいたします」 という機械的な声が返ってきて、彼女は途方に暮れた。

 「どうしよう ... 場所がわからないと、行けないよねえ?」 と、また泣きそうになりながら、彼女は、彼のほうを振りかえってみた。 しかし、彼はそこにはいなかった。 おや、と思い、見回してみると、道端に立っている歓楽街の勧誘だかと思われる黒服に茶色い髪の男に、映画館の場所をたずねている彼の姿が目に入った。 彼女は、あわてて、彼のもとに走り寄った。 黒服の男は、見かけによらず、人の良さそうな笑い声をあげて、「ああ、それなら、そこっすよ」 と目のまえのビルを指差した。

 ... よくあることだ。 彼女ははずかしくて顔を紅潮させたが、彼は、「あ、そうなの。 なあんだ、そっかそっか、サンキュー」 と言って、まるで友だちに対するようなしぐさで男の肩をポンと叩いた。 男は、「良かったら、映画観終わったら、来てください。 ご同伴も可なんで」 と言って、店のビラを彼に差し出した。 彼は、だっはっはっはっはっは、と笑って、「機会があればね ! 」 と、そのビラを受けとった。

 ようやく映画館までたどりつき、さあ、いまならまだ、本編に間に合うかもしれない、と、受付へ向かおうとする二人を、満席・完売の案内が出迎えた。

 ソウル / R&B のレーベル 「モータウン」 レコード専属のバック・ミュージシャンを描いたマニアックなドキュメント映画なので、まさか満席などありえない、と思っていたため、彼女は愕然としてしまった。

 いつもは、夜の九時、十時くらいまで、ざらに残業する彼女であるが、この日は、彼との約束を果たそうと、なんとか仕事を切り上げて、定時であがったのだ。 まだ外が明るいうちに会社を出るなんて、何週間ぶりだろう、などと思いながら。 せっかく、たのしみにしていたのに、映画が観れないなんて ... と、彼女は、また泣きそうになった。 「どうしよう、どうしよう」 ... 彼女の口ぐせが、またもくちびるのあいだをすべった。

 彼女が、どうしていいかわからずに、茫然としていると、彼は、「この近辺で、ほかにやってる映画館をさがすか」 と言った。 まだショックから立ち直りきれていない彼女の手をとり、映画館の外へ出た。 「たしか、ここに来る途中に、本屋、あったよな?」 と言われても、必死になって歩いていたので、まったくおぼえていない彼女。 彼にみちびかれるようにして、本屋へ向かう。 情報誌の映画欄を見てみると、***で、同じ映画がレイト上映されていることがわかった。 九時十分からである。

 「よし。 いまから、***に行くか」 と彼。 彼女はなにがなんだか、よくわからない様子で、「え? これから? まだ観られるところがあるの?」 と逆に訊きかえした。 「うん、まだ、観れるところあるぜ。 せっかくだから、今日観とこう」 と、彼はふたたび彼女の手をとった。

 「せっかくな、映画観終わったら、○○でうまいもの喰って帰ろうと思ってたけどなあ。 まずは***に行って、チケット買ってから、めしを喰ったほうがいいよな」 と、彼は、ひとりごとのようにつぶやいた。 渋谷でめずらしく二人のお気に入りの和食の店があり、映画を観終わったあと、その店で食事をしようと言っていたのだ。 まえまえから、天ぷら定食にしようかしら、お刺身にしようかしら、と考えていた二人であったが、天ぷらも刺身も、あきらめなければならなかった。

 二人は、後ろ髪を、ずるずるひきずるような心持ちで、渋谷の街を逆戻りした。

 (つづく ... )



 「東京は夜の七時 - 後編」

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする