Bob Marley の ‘No Woman No Cry’ で思い出したのだが。
若かりしころ、この歌は、「女のいないところに、涙はない」 「泣かない女はいない」 「女はみんな泣いている」 という意味だと思っていた。
No Woman, No Cry
だと。
某 CD 店のキャッチコピー、
「No Music, No Life」 (「音楽のないところに、人生はない」 「音楽なしでは、生きていけない」) のように、解釈していたのだ。
ここで思い出すのは、太宰治の絶筆
『桜桃』 の、一挿話、主人公の男がふざけて言ったことばに対し、その妻が、子どもに乳を飲ませながら なにげなく返した、「この、お乳とお乳のあいだに、……涙の谷、……」 というひとことである。
一見、にぎやかでたのしい、幸福な家庭を築いているように思える夫婦の危うさ、というものを垣間見せるせりふであろうか。
( ... と言っても、私は、まだ結婚したことがないのだが)
どんなに幸福を装っていても、女はみな、その笑顔の裏で泣かなくてはいけないのか。 涙を胸の谷間にかくして、妻を、母を、演じなければいけないのか。 それが生きるということなのであろうか?
そんなさみしい歌なのかと思っていた。
しかし、あらためて、‘No Woman No Cry’ の歌詞を読んでみると、
No, Woman, No Cry
と、読点の位置がちがうのだ、ということに気がついた。 そうなると、意味も変わってくるのだろうか? 「だめだ、女よ、泣くな」 というような感じだろうか? そうなると、女たちを鼓舞するはげましの歌となる。
その前後の歌詞を読むと、
So dry your tears
Little darling, don't shed no tears
(この、
don't shed no tears の二重否定は、Rolling Stones の ‘I can't get no satisfaction’ と同じように、打消しではなく、強調であろうか?)
Everything's gonna be alright
と うたっているので、やはり、「泣かない女なんていないんだ」 ... なんていうような、やや斜に構えたとも言えるような諦念ではなく、「どうか泣くなよ」 という祈りにも似た、強さとやさしさに満ちた歌なのではないか、という、じぶんなりの結論におちついたのだが。
はてさて。
しかし、そんなふうに、勝手にじぶんで結論づけておきながら、なんとなく、ほっとするような? ちょっと残念なような? 不思議な気持ちになった。 ―― うーん、おかしいかしら?
* ちなみに。 日付がだいぶ変わってしまったが、先日、六月十九日は、
『桜桃忌』 であった。 むろん、上記の作品、『桜桃』 から付けられたものである。
BGM:
Van Morrison
‘Sometimes We Cry’
Sometimes we know, sometimes we don't
Sometimes we give, sometimes we won't
Sometimes we're strong, sometimes we're wrong
Sometimes we cry
...