阿武山(あぶさん)と栗本軒貞国の狂歌とサンフレ昔話

コロナ禍は去りぬいやまだ言ひ合ふを
ホッホッ笑ふアオバズクかも

by小林じゃ

10月18日広島県立図書館「芸藩通志 巻3」など

2018-10-19 09:29:08 | 図書館

 昨日は県立図書館へ。まずは芸藩通志の巻3を出してもらって高田郡と高宮郡の条を読んだ。まずは、「死・葬送・墓制をめぐる民俗学的研究」の表にあった友広神社に関する芸藩通志の記述、

八幡宮 中島村、友廣にあり、村内、田中に、小林あり當社、祭日に供物を此地に置けば、神烏一隻来て、これを喰ふ、他の諸鳥は啄まずといふ、俗に鳥喰森(とりくひのもり)と呼ぶ、

 中島の友広神社はうちから徒歩圏内で広島市指定天然記念物のイチョウの木があり銀杏を拾いに行ったことはあるが(天然記念物の巨木はオスの木)森という感じではなかった。高田郡吉田村の祇園社(清神社)にも似たような記述があった。

祇園社 吉田村、古城山の麓にあり、(中略)本社階下に神木あり、社林に神烏あり、歳首ごとに、烏喰祭といふを行ふ

 清神社は昔サンフレッチェの必勝祈願で訪れたことがあり、毛利時代に植えられたという杉の木はたっぷり花粉を蓄えていてひどい目にあった記憶がある。いやそれはともかく、ここで注目すべきは鳥喰、烏喰と表記が分かれているところだ。興味を持った発端は前回借りて帰った「狂歌家の風」の詞書に大野大頭社の鳥喰祭というのが出てきて、狂歌に「とくひ」と出てくることから鳥喰で「とぐい」だと思っていた。しかし改めて調べてみると大頭神社公式サイトには烏喰になっていて、厳島神社はカラスで記述した書物も多いが公式サイトには御鳥喰式(おとぐいしき)とある。いずれの場所でも、主役はカラスであまり気にすることではないのかもしれない。次回巻2の佐伯郡を読んだ上で狂歌について語ってみたいと思う。しかしネットでも紙の本でも、鳥と烏の活字は紛らわしく老眼が始まっている私にとっては厳しくて目が痛くなった。活字の細かいところを気にしなければいけない作業は目が健康なうちにやっておいた方が良いと若い同志の方に申し上げておきたい。

 芸藩通志では川の名前にも注目しているのだけれど、根谷川については町屋を境に上を根ノ谷川、下を可部川と記述があった。しかし今の三篠川については高宮郡の条ではすべて三田川であった。高田郡の条では長田川、長田は今の向原にあった村名だ。すると明治の地誌にみられる深川川は比較的新しい呼び名なのかもしれない。川の名は各所に出てくるものだから、これは結論を急がず読んでいきたい。

 芸藩通志を読み終えたあと、狂歌の本を3冊、「近世上方狂歌叢書三」「近世上方狂歌の研究」「狂歌逍遙第2巻」を借りて帰った。叢書収録の「狂歌秋の花」を読むと、確かに芸州広島、竹尊舎貞国の歌が確認できる。しかしこの秋の花は延享三年(1746)出版となっていて、「柳井地区とその周辺の狂歌栗陰軒の系譜とその作品」にあった栗本軒貞国の生没年、宝暦四年(1754)~天保四年(1833)から外れてしまっている。没年の天保四年については、「広島縣内諸家名家墓所一覧」にも記述がある。ところが、「近世上方狂歌の研究」の西島孜哉氏は、貞国の家の風(1801)は弟子による序文跋文の内容から貞国の遺稿集であるとして上記生没年より前の時代の人と考えていて、したがって竹尊舎貞国は栗本軒貞国と同一人物で問題ないということになる。家の風では序文跋文で貞国を師、序文と本文詞書で貞佐を先師と呼び貞国の弟子の記述という体裁であることは間違いないが、遺稿であるという根拠はよくわからない。これはこの手の狂歌集における序文跋文の知識、理解力が私には不足しているせいかもしれない。また柳井の本は貞国から柳門を引き継いだ周防の栗陰軒の資料から、例えば賀の歌などから生年を割り出している可能性もあり、宝暦四年の根拠を知りたいところだ。

「狂歌逍遙第2巻」はブログの内容をそのまま印刷したもので、歌がひっついていて読みにくかった。しかし、紙の本にしておく値打ちのある仕事なのは間違いないところだ。

 次回は芸藩通志の巻2を読んでみたい。借りて帰る本はじっくり考えたい。



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