『六朝と隋唐帝国 世界の歴史4』社会思想社、1974年
7 六朝の文化
5 王義之(おうぎし)と顧愷之(こがいし)
すぐれた造形性をそなえた漢字は、いつかそれが美意識の対象にのぼる可能性を、はじめからもっている。
その可能性を発見し、書という芸術の一ジャンルを確立したのは、ものをめずる心をもった六朝人であった。
中国には「六朝の書、唐の詩、宋の画」ということばがある。
書こそが、六朝を代表する芸術だというわけである。
書芸術の最初の完成者として不朽の名声をもつのは、東晋の王義之(おうぎし)である。
かれには、つぎのようなエピソードがつたわっている。
あるとき、扇売りの老婆から扇をとりあげて、どれにも五字ずつ書きつけた。
ふくれっ面をしている老婆に、かれは言った。
「王義之さまの書だといえば、大金がころがりこむよ。」
はたして扇は飛ぶようにうれ、味をしめた老婆がまた扇をかかえてやってきたところ、かれは笑ってとりあわなかった。
このように、かれの人がらは、その書体とおなじように洒脱(しゃだつ)であり、またかれの名声が、その在世中から高かったことがわかる。
王義之の書の偉大さは、前人の技法を集大成したうえに、それをふかくゆたかな情感によって生命づけた点にある。
「蘭亭(らんてい)の序」や「喪乱帖(そうらんちょう)」など、その筆になる名品は、いずれもそうである。
その情感は、のちに唐の孫過庭(そんかてい)が、
「陽に舒(なご)み、陰に惨(いた)みて天地の心に本(もと)づく」
と評したように、天地宇宙の理法を体したものであった。
当時の書や絵画の評論の多くは、技巧と自然の二面から芸術の価値を論ずるのが常である。
自然とは「おのずからにして然(しか)るもの」という意味であり、人間のはからいが感ぜられず、造化のはたらきと一体であるものが、すぐれた芸術作品とされたのであった。
王義之の書は、技巧はもちろんのこと、自然という点においてもすぐれていた。
当時そのように評価されただけではない。
それは時間を超越して、今日のわれわれの心をもうつ偉大な芸術である。
王義之にややおくれる顧愷之(こがいし)の絵画が、「人類あってこのかた最高のもの」と絶賛されたのも、やはりおなじ理由にもとづくにちがいない。
「かれの理念は造化にもひとしい」と言った評論家がいる。
かれはパトロンであった東晋末の軍閥桓玄(かんげん)に、秘蔵の名画を厨子(ずし)につめ、封題(ふうだい)をしたうえあずけたことがあった。
桓玄は厨子のうしろにこっそり穴をあけ、すっかりぬすみだしてからかえした。
顧愷之が厨子をあけてみると、あるはずの名画がない。しかし、すこしも驚がずにこういった。
「画のできばえがすばらしく、神霊と交感したものだから、仙人が天にのぽるのとおなじように、姿をかえて飛びさったのであろう。」
彼自身も、じぶんの作品が自然の造化とひとしいという自信をもっていたのだ。
ところで顧愷之(こがいし)は、謝鯤(しゃこん)の肖像画をえがいた際、山水のなかにその人物を配置したといわれる。人物画が主流であった当時としては、これは画期的なことがらである。そして後世の中国山水画の方向を、はやい時期に示したものである。
山水が画面にとりいれられるにいたったのには、山水詩が生まれたのと同じ理由が考えられよう。
謝鯤像は残念ながら現存しない。
しかし、模本(もほん)として今日につたわる「洛神賦図(らくしんふず)」や「女史箴図(じょししんず)」の背景には、たしかに山水が描かれている。
ところで、ここにとりあげた芸術家たちは、かならずしも書や絵画などにのみ傑出していたのではなかった。
書や絵画のみを得意とする人間は、かえって職人としてさげすまれた。王義之の書や顧愷之の絵画は、あくまでかれらのゆたかな教養のひとつをあらわすにすぎなかった。そこに六朝人の精神を理解するかぎがひそんでいると考えられる。
7 六朝の文化
5 王義之(おうぎし)と顧愷之(こがいし)
すぐれた造形性をそなえた漢字は、いつかそれが美意識の対象にのぼる可能性を、はじめからもっている。
その可能性を発見し、書という芸術の一ジャンルを確立したのは、ものをめずる心をもった六朝人であった。
中国には「六朝の書、唐の詩、宋の画」ということばがある。
書こそが、六朝を代表する芸術だというわけである。
書芸術の最初の完成者として不朽の名声をもつのは、東晋の王義之(おうぎし)である。
かれには、つぎのようなエピソードがつたわっている。
あるとき、扇売りの老婆から扇をとりあげて、どれにも五字ずつ書きつけた。
ふくれっ面をしている老婆に、かれは言った。
「王義之さまの書だといえば、大金がころがりこむよ。」
はたして扇は飛ぶようにうれ、味をしめた老婆がまた扇をかかえてやってきたところ、かれは笑ってとりあわなかった。
このように、かれの人がらは、その書体とおなじように洒脱(しゃだつ)であり、またかれの名声が、その在世中から高かったことがわかる。
王義之の書の偉大さは、前人の技法を集大成したうえに、それをふかくゆたかな情感によって生命づけた点にある。
「蘭亭(らんてい)の序」や「喪乱帖(そうらんちょう)」など、その筆になる名品は、いずれもそうである。
その情感は、のちに唐の孫過庭(そんかてい)が、
「陽に舒(なご)み、陰に惨(いた)みて天地の心に本(もと)づく」
と評したように、天地宇宙の理法を体したものであった。
当時の書や絵画の評論の多くは、技巧と自然の二面から芸術の価値を論ずるのが常である。
自然とは「おのずからにして然(しか)るもの」という意味であり、人間のはからいが感ぜられず、造化のはたらきと一体であるものが、すぐれた芸術作品とされたのであった。
王義之の書は、技巧はもちろんのこと、自然という点においてもすぐれていた。
当時そのように評価されただけではない。
それは時間を超越して、今日のわれわれの心をもうつ偉大な芸術である。
王義之にややおくれる顧愷之(こがいし)の絵画が、「人類あってこのかた最高のもの」と絶賛されたのも、やはりおなじ理由にもとづくにちがいない。
「かれの理念は造化にもひとしい」と言った評論家がいる。
かれはパトロンであった東晋末の軍閥桓玄(かんげん)に、秘蔵の名画を厨子(ずし)につめ、封題(ふうだい)をしたうえあずけたことがあった。
桓玄は厨子のうしろにこっそり穴をあけ、すっかりぬすみだしてからかえした。
顧愷之が厨子をあけてみると、あるはずの名画がない。しかし、すこしも驚がずにこういった。
「画のできばえがすばらしく、神霊と交感したものだから、仙人が天にのぽるのとおなじように、姿をかえて飛びさったのであろう。」
彼自身も、じぶんの作品が自然の造化とひとしいという自信をもっていたのだ。
ところで顧愷之(こがいし)は、謝鯤(しゃこん)の肖像画をえがいた際、山水のなかにその人物を配置したといわれる。人物画が主流であった当時としては、これは画期的なことがらである。そして後世の中国山水画の方向を、はやい時期に示したものである。
山水が画面にとりいれられるにいたったのには、山水詩が生まれたのと同じ理由が考えられよう。
謝鯤像は残念ながら現存しない。
しかし、模本(もほん)として今日につたわる「洛神賦図(らくしんふず)」や「女史箴図(じょししんず)」の背景には、たしかに山水が描かれている。
ところで、ここにとりあげた芸術家たちは、かならずしも書や絵画などにのみ傑出していたのではなかった。
書や絵画のみを得意とする人間は、かえって職人としてさげすまれた。王義之の書や顧愷之の絵画は、あくまでかれらのゆたかな教養のひとつをあらわすにすぎなかった。そこに六朝人の精神を理解するかぎがひそんでいると考えられる。