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『六朝と隋唐帝国 世界の歴史4』社会思想社、1974年
10 唐朝の建国
1 李淵(りえん)の挙兵
唐朝をおこした李淵は、父の祖先も、母の祖先も、北周の大官僚の家柄であった。
祖父の李虎は西魏のとき、すでに最高の官職にあり、李淵の母はおなじく最高の官にあった独孤信(どくこしん)の娘で、隋の文帝の皇后と姉妹であった。
しかし李淵は、隋代ではあまりはなばなしい官職についていない。
首都警備の官をへて、煬帝(ようだい)のときには地方長官を歴任し、このようにして三十代から四十代をすごした。
大業九年(六一三)、煬帝が第二次の高句麗遠征をおこなったとき、李淵は前線で輸送監督の任にあたっていたが、このとき楊玄感の反乱がおこった。
そこで李淵はただちに西方の弘化郡(甘粛省)に派遣され、弘化留守(りゅうしゅ)に任命された。
留守(りゅうしゅ)というのは常置の官ではないが、非常のときにあたって、皇帝から文武の大権を委任される重要な役目である。
隋の文帝の皇后の親族として、また北周以来の大官の子弟として、この非常時に起用されたのであろう。
ときに李淵は四十八歳であった。
ついで大業十二年には、太原(山西省)留守(りゅうしゅ=高官)にうつった。
太原は古くから動乱の起点となったところである。
そのころには、すでに群雄が各地におこり、天下は麻のごとくみだれて、もはや隋朝復興の望みはすくない。
そのうえ煬帝は、風光の美しい江都(揚州)にうつって、戦乱をよそにぜいたくな日々を送っていた。
李淵の次子李世民は、ちょうど二十歳であったが、めぐまれた文武の素質をもち、この情勢を見て、ひと旗あげようと考えた。
太原には、遠征より逃亡した人びとがあつまり、大志をいだく世民には絶好の機会となりつつある。
また太原にあった県の長官(晋陽県令)である劉文静も、世民とむすんでいる。
たまたま劉文静が楊玄感の謀将である李密と姻戚関係のために、逮捕(たいほ)状がでるとのうわさが伝わった。
かくて、ついにたちあがる決意をした。しかし世民は父の威光をおそれて、大事をおこすのを、なおためらった。
李淵はもとから裴寂(はいせき)と仲がよかった。
裴寂は太原にあった離宮(晋陽宮)の副監という地位にあり、このころ太原では劉文静とならぶ大官であった。
そこで劉文静は、まず世民を裴寂に近づけた。世民は裴寂が睹博(とばく)のすきなことを知り、ある夜、私費を数百万銭も出してインチキ大賭博会をひらき、裴寂に勝たせた。
そうして喜ばせて近づき、ついに裴寂に旗あげの計画をうちあけて賛成させた。
裴寂は一計を考えた。ある夜の宴会で、ひそかに晋陽宮の宮女を李淵に侍(はべ)らせた。宴会がおわって告げる。
いまの宴会に侍っていた女は、皇帝が晋陽宮に行幸したときに奉仕する宮女で、そのことが知れると罪になるぞ。
そういって李淵をおどし、ついに李淵に旗あげを認めさせた。
このころ世間では、隋の楊氏に代わるものは李氏であるといううわさがひろまっていた。
李金才というものは、そのうわさの犠牲になって、一家みな殺しにされた。
それが李淵にもおよびそうであった。
また李淵の部下は、北方の突厥(とっけつ)を討って失敗した。
たまたま煬帝からは、突厥にたいする敗戦の責任を問うて、江都の煬帝のもとに出頭を命じたことが伝わった。
ついに李淵は、世民たちの説得にしたがい、軍をおこす決意をかためた。
そこで煬帝の勅といつわり、高句麗討伐のためと称して、兵をあつめた。
これに反対する者は、ようしゃなく斬ってすてた。
李淵の挙兵は、その太原留守(りゅうしゅ)としての地位をフルに活用したものであった。
その点、民衆の蜂起した反乱とは、性質がことなっている。
また、そのころ太原にいた隋の官吏や軍団も、ほとんど参加したのである。
李淵はみずから大将軍と称し、そのもとに大将軍府を設置した。
これは左右中の三軍にわけられ、長男の建成、次男の世民、そして四男の元吉(三男はすでに死亡)を、それぞれ大都督に任命する。
裴寂(はいせき)と劉文静は、本部に配属された。
のちに唐朝が創業されると、この人たちが、朝廷の中巾核体を構成したのである。
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10 唐朝の建国
1 李淵(りえん)の挙兵
唐朝をおこした李淵は、父の祖先も、母の祖先も、北周の大官僚の家柄であった。
祖父の李虎は西魏のとき、すでに最高の官職にあり、李淵の母はおなじく最高の官にあった独孤信(どくこしん)の娘で、隋の文帝の皇后と姉妹であった。
しかし李淵は、隋代ではあまりはなばなしい官職についていない。
首都警備の官をへて、煬帝(ようだい)のときには地方長官を歴任し、このようにして三十代から四十代をすごした。
大業九年(六一三)、煬帝が第二次の高句麗遠征をおこなったとき、李淵は前線で輸送監督の任にあたっていたが、このとき楊玄感の反乱がおこった。
そこで李淵はただちに西方の弘化郡(甘粛省)に派遣され、弘化留守(りゅうしゅ)に任命された。
留守(りゅうしゅ)というのは常置の官ではないが、非常のときにあたって、皇帝から文武の大権を委任される重要な役目である。
隋の文帝の皇后の親族として、また北周以来の大官の子弟として、この非常時に起用されたのであろう。
ときに李淵は四十八歳であった。
ついで大業十二年には、太原(山西省)留守(りゅうしゅ=高官)にうつった。
太原は古くから動乱の起点となったところである。
そのころには、すでに群雄が各地におこり、天下は麻のごとくみだれて、もはや隋朝復興の望みはすくない。
そのうえ煬帝は、風光の美しい江都(揚州)にうつって、戦乱をよそにぜいたくな日々を送っていた。
李淵の次子李世民は、ちょうど二十歳であったが、めぐまれた文武の素質をもち、この情勢を見て、ひと旗あげようと考えた。
太原には、遠征より逃亡した人びとがあつまり、大志をいだく世民には絶好の機会となりつつある。
また太原にあった県の長官(晋陽県令)である劉文静も、世民とむすんでいる。
たまたま劉文静が楊玄感の謀将である李密と姻戚関係のために、逮捕(たいほ)状がでるとのうわさが伝わった。
かくて、ついにたちあがる決意をした。しかし世民は父の威光をおそれて、大事をおこすのを、なおためらった。
李淵はもとから裴寂(はいせき)と仲がよかった。
裴寂は太原にあった離宮(晋陽宮)の副監という地位にあり、このころ太原では劉文静とならぶ大官であった。
そこで劉文静は、まず世民を裴寂に近づけた。世民は裴寂が睹博(とばく)のすきなことを知り、ある夜、私費を数百万銭も出してインチキ大賭博会をひらき、裴寂に勝たせた。
そうして喜ばせて近づき、ついに裴寂に旗あげの計画をうちあけて賛成させた。
裴寂は一計を考えた。ある夜の宴会で、ひそかに晋陽宮の宮女を李淵に侍(はべ)らせた。宴会がおわって告げる。
いまの宴会に侍っていた女は、皇帝が晋陽宮に行幸したときに奉仕する宮女で、そのことが知れると罪になるぞ。
そういって李淵をおどし、ついに李淵に旗あげを認めさせた。
このころ世間では、隋の楊氏に代わるものは李氏であるといううわさがひろまっていた。
李金才というものは、そのうわさの犠牲になって、一家みな殺しにされた。
それが李淵にもおよびそうであった。
また李淵の部下は、北方の突厥(とっけつ)を討って失敗した。
たまたま煬帝からは、突厥にたいする敗戦の責任を問うて、江都の煬帝のもとに出頭を命じたことが伝わった。
ついに李淵は、世民たちの説得にしたがい、軍をおこす決意をかためた。
そこで煬帝の勅といつわり、高句麗討伐のためと称して、兵をあつめた。
これに反対する者は、ようしゃなく斬ってすてた。
李淵の挙兵は、その太原留守(りゅうしゅ)としての地位をフルに活用したものであった。
その点、民衆の蜂起した反乱とは、性質がことなっている。
また、そのころ太原にいた隋の官吏や軍団も、ほとんど参加したのである。
李淵はみずから大将軍と称し、そのもとに大将軍府を設置した。
これは左右中の三軍にわけられ、長男の建成、次男の世民、そして四男の元吉(三男はすでに死亡)を、それぞれ大都督に任命する。
裴寂(はいせき)と劉文静は、本部に配属された。
のちに唐朝が創業されると、この人たちが、朝廷の中巾核体を構成したのである。
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