『文芸復興の時代 世界の歴史7』社会思想社、1974年
8 ヒューマニストの運命
5 忍びよる嵐
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こうして一五二六年はいわばヒューマニストの蜜月(みつげつ)であったが、あのルターの運動がおこったのは翌一五一七年のことである。
ルターはその運動が進むにつれて考えた――これまでのエラスムスの聖書や教会に対する態度から判断して、いまや全ヨーロッパで高名なこの大古典学者を自分の陣営に加えれば、改革運動を有利にすることができると。
そこでルターは直接、エラスムスに手紙を出して、その支援を求める。その結果はどうであろうか。
なるほどエラスムスは、当時の教会や僧侶の堕落したありさまには批判的であった。
しかしエラスムスはカトリック教会から分かれたり、教皇権を否定しようなどとは少しも考えていなかった。
そしてこれは彼のみならず、ヒューマニストたちの多くに共通した態度である。
したがってエラスムスはルターに、その信仰上の熱意には敬意を表するが、実践の方法には賛成できないと答えた。
さらに彼の返書のなかには、あなたがきちがいじみた罵言(ばげん)をつつしみ、自分の立場だけを主張していたならば、あなたに憤慨する人たちはもっと少なかったでしょう。
あなたの抑制がきかない性格のため、いささか取り返しがつかない混乱におちいることを心配する、などという文字が見うけられる。
それでもエラスムスはドイツ諸侯にあてて、ルターの言動には賛同できないが、温情をもってこれを遇してほしいといっているし、またローマ教皇に対しても慎重な処置を要望した。
さらに彼は諸君主にも宗教上の寛容政策を進言したり、平和的解決のために新旧両教徒との談合にあたったりした。
しかしこうしたエラスムスの努力にもかかわらず、ルターは破門され、その説は異端とされるなど、事態は進展するとともに、ルター派の勢力も増大して、プロテスタント運動も急速に発展していった。
この運動に関連して、一五二四年にはドイツ大農民戦争が展開する。
この年、エラスムスははっきりとルターの説に反対の見解を示し、それからこれに対するルターの反論、またエラスムスの反論と、両者の決裂は動かしがたいものとなった。
一方カトリックの側でも、この大古典学者を味方につけようとして、ローマ教皇はいろいろと働きかけた。
しかしエラスムスはこれに応じないで、新旧両教徒の争いのなかにはいろうとはしなかった。
彼は「世界の市民」として一党派に与(くみ)することを拒否したが、こうした態度はかえって相手を刺激し、彼は新旧両派から攻撃されることとなった。
カトリック側では、「エラスムスが卵をうみ、ルターがこれをかえした」と非難し、パリ大学神学部などはエラスムスの思想を異端視するようになった。
一方トマス・モアは実務家として、ますます才能を発揮していた。
これにほれこんだヘンリー八世は、彼に宮仕えさせたいと切望する。
ただでさえヒューマニストたちをもって、自分のまわりをかざりたい王である。
モアははじめは王の誘いに応じなかったが、生活上のこともあって、一五一八年ついに受け入れた。
これについてエラスムスは、王がモアを宮廷にひっぱりこんだと表現し、親友の前途について、なにか不安の念を抱かざるをえなかった。
それはともかく、モアの活躍は司法、外交、財務、行政など、多方面にわたり、また下院議長の地位にもついた。エラスムスとちがって、どこでも楽しみを見つけられるモアにとり、才能ある人びとが集まった宮廷の生活は、それなりにこころよいものであった。
なお外国からの賓客(ひんきゃく)をむかえるときのラテン語のあいさつに、彼の才能はとくに重宝がられた。
そしてモアは一五二九年十月、大法官(大法官庁裁判所の長)となり、司法官として最高の地位についた。辞退する彼に向けての王の言葉は、「モアこそ最適の人物と認める」という返答であった。
そのころ大法官庁には多くの未決の事件があった。
しかしモアの在任中にこれらはすべて解決され、二年半あまりで辞任したときには、未決の事件は一つもなかったといわれ、つぎのように語り伝えられている。
「ここ二年のあいだ、モアが大法官だったころ、未決でのこった訴訟はなかった。
同じことは二度とあるまい、モアがもう一度つとめるまでは。」
ところでモアは異端に対しては、きびしく取りしまっている。
彼はエラスムスと同様に、カトリック教会の僧侶の現状には批判的で、おだやかな改革を望んだが、ローマ教皇から分離したり、カトリック教会のなかに分裂をつくることには反対であった。
この点、プロテスタントの運動の進行につれて、かつてモアが『ユートピア』に示した信仰上の寛容、自由な態度も変わってきたようである。
彼はプロテスタントの運動を一種の有害な流行病のようにみなした。
前述のように二年あまり勤めた後、モアは一五三二年五月、「彼以上に適任者はかつていなかった」とまでいわれる大法官の地位を退いた。
彼自身はエラスムスへの手紙のなかで、この理由は病気のためといっているが、真の理由はもっと深いところにあった。それはイギリスの宗教事情に関連していた。
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8 ヒューマニストの運命
5 忍びよる嵐
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こうして一五二六年はいわばヒューマニストの蜜月(みつげつ)であったが、あのルターの運動がおこったのは翌一五一七年のことである。
ルターはその運動が進むにつれて考えた――これまでのエラスムスの聖書や教会に対する態度から判断して、いまや全ヨーロッパで高名なこの大古典学者を自分の陣営に加えれば、改革運動を有利にすることができると。
そこでルターは直接、エラスムスに手紙を出して、その支援を求める。その結果はどうであろうか。
なるほどエラスムスは、当時の教会や僧侶の堕落したありさまには批判的であった。
しかしエラスムスはカトリック教会から分かれたり、教皇権を否定しようなどとは少しも考えていなかった。
そしてこれは彼のみならず、ヒューマニストたちの多くに共通した態度である。
したがってエラスムスはルターに、その信仰上の熱意には敬意を表するが、実践の方法には賛成できないと答えた。
さらに彼の返書のなかには、あなたがきちがいじみた罵言(ばげん)をつつしみ、自分の立場だけを主張していたならば、あなたに憤慨する人たちはもっと少なかったでしょう。
あなたの抑制がきかない性格のため、いささか取り返しがつかない混乱におちいることを心配する、などという文字が見うけられる。
それでもエラスムスはドイツ諸侯にあてて、ルターの言動には賛同できないが、温情をもってこれを遇してほしいといっているし、またローマ教皇に対しても慎重な処置を要望した。
さらに彼は諸君主にも宗教上の寛容政策を進言したり、平和的解決のために新旧両教徒との談合にあたったりした。
しかしこうしたエラスムスの努力にもかかわらず、ルターは破門され、その説は異端とされるなど、事態は進展するとともに、ルター派の勢力も増大して、プロテスタント運動も急速に発展していった。
この運動に関連して、一五二四年にはドイツ大農民戦争が展開する。
この年、エラスムスははっきりとルターの説に反対の見解を示し、それからこれに対するルターの反論、またエラスムスの反論と、両者の決裂は動かしがたいものとなった。
一方カトリックの側でも、この大古典学者を味方につけようとして、ローマ教皇はいろいろと働きかけた。
しかしエラスムスはこれに応じないで、新旧両教徒の争いのなかにはいろうとはしなかった。
彼は「世界の市民」として一党派に与(くみ)することを拒否したが、こうした態度はかえって相手を刺激し、彼は新旧両派から攻撃されることとなった。
カトリック側では、「エラスムスが卵をうみ、ルターがこれをかえした」と非難し、パリ大学神学部などはエラスムスの思想を異端視するようになった。
一方トマス・モアは実務家として、ますます才能を発揮していた。
これにほれこんだヘンリー八世は、彼に宮仕えさせたいと切望する。
ただでさえヒューマニストたちをもって、自分のまわりをかざりたい王である。
モアははじめは王の誘いに応じなかったが、生活上のこともあって、一五一八年ついに受け入れた。
これについてエラスムスは、王がモアを宮廷にひっぱりこんだと表現し、親友の前途について、なにか不安の念を抱かざるをえなかった。
それはともかく、モアの活躍は司法、外交、財務、行政など、多方面にわたり、また下院議長の地位にもついた。エラスムスとちがって、どこでも楽しみを見つけられるモアにとり、才能ある人びとが集まった宮廷の生活は、それなりにこころよいものであった。
なお外国からの賓客(ひんきゃく)をむかえるときのラテン語のあいさつに、彼の才能はとくに重宝がられた。
そしてモアは一五二九年十月、大法官(大法官庁裁判所の長)となり、司法官として最高の地位についた。辞退する彼に向けての王の言葉は、「モアこそ最適の人物と認める」という返答であった。
そのころ大法官庁には多くの未決の事件があった。
しかしモアの在任中にこれらはすべて解決され、二年半あまりで辞任したときには、未決の事件は一つもなかったといわれ、つぎのように語り伝えられている。
「ここ二年のあいだ、モアが大法官だったころ、未決でのこった訴訟はなかった。
同じことは二度とあるまい、モアがもう一度つとめるまでは。」
ところでモアは異端に対しては、きびしく取りしまっている。
彼はエラスムスと同様に、カトリック教会の僧侶の現状には批判的で、おだやかな改革を望んだが、ローマ教皇から分離したり、カトリック教会のなかに分裂をつくることには反対であった。
この点、プロテスタントの運動の進行につれて、かつてモアが『ユートピア』に示した信仰上の寛容、自由な態度も変わってきたようである。
彼はプロテスタントの運動を一種の有害な流行病のようにみなした。
前述のように二年あまり勤めた後、モアは一五三二年五月、「彼以上に適任者はかつていなかった」とまでいわれる大法官の地位を退いた。
彼自身はエラスムスへの手紙のなかで、この理由は病気のためといっているが、真の理由はもっと深いところにあった。それはイギリスの宗教事情に関連していた。
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