『文芸復興の時代 世界の歴史7』社会思想社、1974年
12 聖バルテルミーの虐殺
2 政略の婚儀
こうして十年がたった。
このあいだ、戦いはふつう三次に分けられているが、激しい争いのうちにも、勝敗の決はつかない。
敗戦の知らせに、勝報がつづき、その喜びも果てぬまに、またもや敗戦が告げられるありさま。
そうするうちに、一五七〇年八月、プロテスタントに信仰の自由などを認めるサン・ジェルマンの勅令によって、第三次宗教内乱はようやくおさまった。
カトリーヌは王権を守るため、ふたたびカトリック・プロテスタント両派に対する妥協策に出ようとする。
こうしてギーズ家によりかかっていた宮廷側に、これに代わって迎えられたのは、プロテスタントのコリニー提督(一五一九~七二)である。
彼はまえには陸戦に従い、とくに歩兵を動かしては、誉(ほま)れ高いものがあった。
一五五二年アンリ二世は彼を海軍元帥というべき地位に任じ、彼の活躍によって、王家の旗じるしは遠く新大陸アメリカまでひるがえることとなった。
彼は五八年ごろカルバンの教えに改宗して、プロテスタントとなったが、ある高官のとりなしで、カトリックのアンリ二世の寵(ちょう)を失わずにすんだ。
当時、コリニーはカトリーヌと同じく五十三歳、武人というよりも、聖職者を思わせる風貌であり、威厳をそなえたうちにも、ものうげな印象を与えた。
彼を宮廷に入れたことを、一時は得意に思った王母も、やがて後悔しなければならなかった。
コリニーは彼女のおもわくをこえて、国王の心を捕えてしまったのである。
病身で孤独なシャルル九世はコリニーの人格、識見に魅せられ、彼を「父」とよぶほどの敬愛の情をしめした。
シャルルは身心ともに弱々しかっただけに、偉大な王でありたいとねがった。
このために彼は、当時国際的に優越しているスペイン王、フェリペ二世に一泡ふかせたいと思った。
王はコリニーのすすめにしたがい、母后や宮廷の意向に反しても、このスペインから独立しようとしているプロテスタント勢力のオランダを援助することを考えた。
王は母にはかくして、コリニーと作戦計画に熱中しているありさまだ。
こうしたとき、プロテスタントの指導者アンリ・ド・ブルボン(のちのアンリ四世)と、シャルル九世の妹マルクリート(一五五三~一六一五)とが結婚することとなった。
二人はともに十九歳、若年ながら「プロテスタントの王」ともいうべきアンリは、すでに勇者として名声が高い。
幼時から「マルゴ」と愛称されたマルクリートは、生涯を通じていくども恋に陶酔した情熱的な女性である。
カトリーヌはカトリックのわが娘を、このプロテスタントのアンリと結婚させることで、なにを考えていたのか。
マルクリートがアンリ・ド・ギーズ(ブルボン)に恋していることが、まずカトリーヌの気にいらなかった。
二人が結婚すれば、ギーズ家がまた以前のように、王族として権勢をほしいままにする結果になりはしないか。
逆にアンリ・ド・ナバールが結婚すれば、この手ごわいプロテスタントがどんなことでカトリックに改宗するかもしれない。
プロテスタント側でも、宮廷と密接な関係が生まれるこの政略結婚は有利である。
アンリとマルクリートの結婚は、一五七二年八月十八日、パリで行なわれた。
カトリックの花嫁は兄のアンジュー公アンリ(シャルル九世の弟で、のちのアンリ三世)につきそわれて、ミサに列した。
プロテスタントの花婿は教会の入り口にとどまって、これを待っていた……。
祝宴が儀式につづいたが、この婚儀のために何百人ものカトリック・プロテスタント両教徒の貴族たちが、すでに七月、地方からパリに到着していたのである。
しかしギーズ家など、パリの熱狂的なカトリックにとって、この結婚は「大きな怒りと憎しみのうちに」決定されたものであった。
一五七二年で、王シャルルと同年の二十二歳のギーズ公アンリ(一五五〇~八八)は、バロワ王家の男たちの病的な弱々しさにくらべて、ギーズ家の若殿らしいたくましさに溢れていた。
しかしこのアンリは権勢を失ったうえに、恋人マルゴをプロテスタント側に取られたことに深い恨みをいだいた。
また彼は父フランソワが殺されたことについて、コリニーに対して復讐の念を忘れることはできない。
パリの力トリックの市民たちは、ギーズ家の熱狂的なファンである。
ギーズという名が口にされるたびごと、彼らの心はおどるのだ。彼らはギーズ家の知性よりも男らしさ、頭より腕っぷしというところが、そして徹底したプロテスタントに対する不寛容が、たまらない魅力なのだ。
一方、パリの市民たちは、ほかならないこの都市を攻めたことがあるコリニーに、強い反感をいだいている。
このコリニーがシャルル九世の側近で、急速に勢力をもち始めたことも、彼らには許しがたいことであった。
一方、シャルル九世とコリニーとの接近は、カトリーヌにも強い不安を与えた。
つまりカトリーヌはスペインとの戦争に反対であるうえに、愛児の関心を奪われたこと、権力を奪われたことに耐えがたくなったのだ。
ルネサンス期イタリアで、「毒殺と刺客」のなかに育った彼女にとって、結論には手間どらなかった――
「この男をのぞかねばならない。」
ではそのために、だれを頼るべきか。
勢力の均衡のうえからも、王母はギーズ公アンリに接近せざるをえない。
待っていたとばかり、喜んだのはギーズ一門である。
またカトリーヌは、王弟アンジュー公アンリとも共謀した。
コリニーは婚儀が終わったのち、宮廷を去って、地方にいる一年前に結婚したばかりの二度目の若い妻のもとに、帰りたがっていた。
八月十八日、彼は妻に書き送っている。
「今日は王妹とナバール王との結婚の日だ。
つぎの三、四日は宴会、舞踊会、トーナメントなどについやされよう。
私はおまえに会いたくてたまらないが……。
自分の気持ちにだけ従ってよいのならば、ここに留まっているよりも、おまえのもとにいるほうがずっと幸福なのだが、しかし我々は個人的な満足よりも公けのためを考えねばならない。」
公けのためとは、さきのサン・ジェルマンの勅令が十分に実行されるように、王に働きかけることであった。
コリニーはまた妻に、「私の出立は手間どるまい、来週は帰るから」とも書いているが、じつはその来週は彼に残されていなかったのだ。