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7-10-4 別離

2023-11-03 04:52:00 | 世界史

『文芸復興の時代 世界の歴史7』社会思想社、1974年
10 悲劇の女王メアリー・スチュアート
4 別離

 しかしメアリーの心はまったくボスウェルにひきつけられており、「彼といっしょであれば、世界の果てまでも行く」というありさまだった。
 彼女は彼を犯人と信じていなかったのか?
 かって母の摂政政府をもりたててくれたボズウェル、あのリッチョ暗殺の恐怖の夜、身をもって彼女を守ろうとしてくれたこの男、彼はメアリーにとって、世間が考えるのとはまったくべつの存在であったのであろうか?
 メアリーはすでに宿していた子を庶子としたくなかったのだろうか?
 一五六七年五月、ボズウェルの妻が離婚されるとすぐに、メアリーは「誘拐(ゆうかい)」されたという形で彼と結婚した。
 エジンバラの市民たちは、「女王は生きるに値しない」と露骨に反感を示し、婦人たちはとくにそうであった。
 スコットランドの女王には、イギリスの女王が示したような自制心がなく、政治と私情とを区別することができず、この結婚は、メアリーの堕落を印象づけるのみであった。
 メアリー・ステュアートのように美しく教養ある女性が、どうしてあのように不幸な結婚生活ばかり経験しなければならなかったのであろうか。
 わずかな蜜月ののち、メアリーは冷静にかえると告白せざるをえない。
 「私は彼の権力のえじきとされたにすぎませんでした。」
 しかし愛するがゆえに、離れることはできない。
 といっても、個人的な哀歓にひたっていることは許されなかった。
 六月、専制的なボズウェルに対して、貴族たちは結束して反抗をはじめた。
 カトリックの貴族もメアリーを見すてた。身の危難を感じたボズウェルは、いち早くエジンバラを脱出する。
 メアリーはどうするのか?
 側近の勧告をも顧みず、彼女はやはり「えじき」としての道をえらんだ。
 すべてをすてたメアリーは夜陰に乗じて男装し、鞍(くら)に飛びのり、愛人と生死をともにするため馬を走らせる……。
 そしてエジンバラの郊外、両軍が相対したカールペリの丘で、ボズウェルの敗北が決定的となったとき、メアリーは自分がエジンバラヘ単身帰れば、その夫を自由に行動させるという貴族たちの条件をのんだ。
 ボズウェルは国外に逃亡し、以後二度と妻と相会する機会をえなかった。
 彼は一五七八年デンマークで非業の死をとげるが、あるとき、ダーンリー暗殺は彼とその仲間の仕事であり、メアリーはまったく無関係だと神かけて誓ったという。
 一方、メアリーも六七年六月中ごろから監禁される身となったが、二人のあいだの子供はどうなったか、ついに不明のようである。
 月たらずの赤子が生まれたという説もあるが、ともかく闇から闇へ葬られたものとみえる。
 そして七月末退位を迫られた女王は、息子のジェームズにその地位を譲らざるをえなかった。
 牧師ノックスは声高らかに説いた。
 「もし女王がおのれにふさわしい罰に服しないならば、天罰はこの国、この国民の上にくだるであろう。」
 エジンパラで群衆は叫んでいた、「売春婦を焼き殺せ――」夫殺しの罪を犯した妻は火刑に処せられるのが、当時のならわしであった。

 新しい国王ジェームズ六世はまだ幼いので、ジェームズ・ステュアート・マリー伯が摂政となうた。
 彼はメアリーの腹ちがいの兄で、プロテスタントになった貴族であり、また親英的であった。
 こうしてスコットランドでは、カルバン主義のプロテスタントが発展することとなる。
 一方、退位したメアリーに残されたことは、まず自由の身となることである。
 一五六八年三月、洗濯女に変装した第一回の試みは、その職業にふさわしくない白いきゃしゃな手で暴露してしまった。
 五月はじめ、一部の貴族を手なずけた二度目の試みは、小姓の少年の手びきで成功した。
 しかし悲運はメアリーを離れない。
 五月十三日、プロテスタントの摂政政府との決戦に敗北したメアリーは、馬を疾駆させて戦場を脱し、三日後、スコットランドの果てに到着した。
 わずかな休息をしただけで、長い道のりを駆けとおしたメアリーは、官能の喜悦に耽溺(たんでき)する女ではなく、「危険と剣と冒険」とに身を艇(てい)するルネサンスの女性でもなく、哀れな一介の女にすぎなかった。
 このスコットランドの果てから、彼女が亡命すべき土地はフランスか、スペインか、それともイギリスか?
 メアリーはフランスの王母カトリーヌ・ド・メジシスの嘲笑よりも、スペイン王フェリペ二世の冷酷さよりも、エリザベスの情愛を選んだ。
 かって、「いかなるおりにもイギリス女王は信用しうる友である。期待されていてよろしい」と力づけてくれたエリザベスを選んだ。
 ふたたびスコットランドの王位に返りうることを期待しつつ――。
 そのスコットランドの前女王メアリー・ステュアートは、一五六八年五月なかば、粗末な漁船に身を託して、イギリスの小さい港町カーライルの近くに上陸した。
 まだ二十五歳たらずのこの女性の生涯は、事実上これで幕を閉じる。
 悔いなき人生といおうか、悔い多き人生というべきか……。





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