フランツ・フィンゲル神父「分離の教会」『汝巌なり』山形天主公教会、1926年
2、ギリシャ正教の起源
使徒聖パウロは、ヘブライ人にあてた書簡で、キリストが大司祭である資格を説明しながら、ただ適当な性質のある信者だけがカトリック教会の中で司祭の職を担うべきことを勧告しようと思って、
「また神に召されたることアーロンの如くならずしては、何人もこの尊き位を自ら取る者なし」(ヘブライ5・4)と警告をしました。キリストご自身が、御在世中に、教会のはじめの司祭たちであったその使徒たちに、もっぱら謙遜の善徳を具体的に示そうと、
「異邦人の君主が人をつかさどり、大なる者人の上に権を振るうは、汝らの知るところなり、汝らの中には、然あるべからず、汝らの内に大ならんと欲する者は、かえって汝らのしもべとなるべし」(マタイ20・25-28)と教えたまいました。
ギリシャ正教の起源を見ると、幾多の権威者の大なる傲慢こそは、禍の源になったということがわかります。このような権威者は、国家のほうにも教会のほうにもありました。もとのローマ帝国の都であって、その後、カトリック教会の最上のかしらの座になったローマに対して、今のトルコの都であるコンスタンチノープルは、ギリシャ帝国の都になったので、そこにいた権威者は、ローマの権威者と大いに競争するようになりました。同時にコンスタンチノープルの皇帝と政府は、大体においてカトリック教会の発達のために非常に尽力しましたが、時々誤った政策をとり、暴力さえ加えて教会の事柄に無理に干渉しました。特に、教会内にあまりに御用の司教を任命しようと努力したことは、教会のためにも、国家のためにも大きな失策でありました。
ギリシャ正教の起源をもつと、詳しく言えば、その地方に住んでいたキリスト信者は、キリストの御降世からおよそ1千年の間は、たまには多少の分離や離教もあったけれども、概してイエズス・キリストのご希望のとおり、カトリック教会のかしらのもとに宗教上の一致をよく守りました。けれどもキリスト御降世からおよそ1千年ごろに、コンスタンチノープルの政府の間違った政策と、ミカエル・ケルラリウスという政府の御用人物であって、自ら教皇と同じような位に上ろうという、あさはかな野心を懐いていたコンスタンチノープルの大司教の運動の結果、特にバルカン半島および小アジアのカトリック信者の大部分を、カトリック教会から分離しました。事実において、キリストの定めたもうた、真理の磐であるカトリック教会から分離しました。これらの分離したキリスト信者は、いわゆる民族的に独立の教会になり得たことをしばらく誇りましたが、だんだん内部的な弱味に陥り、ギリシャ帝国のためにもかえって不利益となりました。
このように、カトリック教会から分離したキリスト信者をさらにカトリック教会と合併する運動は、その後時々起こりましたので、両3度、大分成功したこともありました。
現代でも合併運動は、さらにますます盛んになる模様があります。
特にギリシャ正教は、分離の時代から別に他の異説を唱えることが、ほとんどありませんでしたから、教理と組織との点がカトリック教会に大変近いので、再びカトリック教会に帰一するのに大きな差し支えはないはずです。
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