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『公教と新教との教理上の主なる差異』ヤコブ・リンデン著 荻原晃訳 東京公教青年会、1921年
3、誰が聖書を誤りなく解くことができるか
【公教(カトリック)】
聖書の中には往々解しにくいところがあって、無学な人々は容易に誤りに陥る。しかし、聖霊のつかさどり給う教会のみは、これを誤りなく解くことができる。
聖パウロの書簡については、使徒聖ペトロでさえ、
「彼はすべての手紙の中で、そのことを述べています。その手紙の中には理解しにくいところもあり、無学な人や、心の定まらない人は、他の聖書と同じように、これを曲解し、みずから滅びを招いています」(ペトロ後書3:16)と言っている。
【新教(プロテスタント)】
キリスト信者は誰でも自分で聖書を解することができるものであって、常に真面目に、しかも解することができるように祈りながら読めば、明らかに救いの道を知ることができるものである。
【反駁】
1、ルーテルは、聖書を読んで、善業は救霊を得るに必要なものでないということを言い出したが、今では多くの新教徒達は、善業は救霊のために必要であると思っている。それならば、いずれが救いの道を明らかに知ったものであろうか。
2、すべての教父たちは、真面目にしかも解し得るように祈りつつ聖書を読んだけれども、新教徒とは全く違った救いの道を認めたのである。それならば、どちらが正しいであろうか。
3、新教徒は、聖霊は、正直に聖書を研究するものには、真の意味を解き明かし給うと思っている。しかし、キリストの神性及び聖体の秘跡のような、最も重大な点について、彼等は互いに相容れない説を立てているが、これはどうしたことであろうか。果たして聖霊は、ある人にはこの事を他の人には反対なことを教え給うものであろうか。
●注意1
新教徒は、公教会は信者に聖書を読む事を禁じると主張する。これは、全く嘘の説である。公教会は信者に聖書を読ませるが、ただ、次の3つの点を注意するのみである。
第1
公教会は、ラテン語又はギリシャ語又はヘブライ語の聖書を読むことのできない人々が、翻訳の聖書を読むときには、教会から認可されたものを使うべきことを命ずるのである。それは、新教徒は至る所に誤訳の聖書をひろめているので、無学な公教徒が誤りに陥らないようにするためである。
第2
翻訳書を用いるときは難解のところには正しい注釈のあるものを用いることをすすめる。もしそうしないと、誤訳のために大いなる禍を招くおそれがある。
●注意2
新教徒は、さらに、
「ルーテルは机の下から聖書をひろいだした」と主張している。
すなわち、ルーテルの前には聖書というものはごくわずかの人々に知られたのみで、公教会は聖書の宣伝に何もつとめなかったと言いたいのである。
しかし、実際は、その反対である。すでに中世期において、特に印刷術の発明以後には、聖書のように、公教徒の国民に知られ、かつこれほど多く広まった本はなかった。ドイツ語の翻訳でさえ、ルーテルの前にすでに17種あった。
また、ルーテルの聖書の翻訳は誤謬がいっぱいで、新教徒の学者(ブンゼン)でさえ、ルーテルの翻訳中には三千箇所の誤訳があると言っている。その聖書を見れば、容易にルーテルは翻訳の中に、自分の意見をつけ加えようとしたものであることが証明される。
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3、誰が聖書を誤りなく解くことができるか
【公教(カトリック)】
聖書の中には往々解しにくいところがあって、無学な人々は容易に誤りに陥る。しかし、聖霊のつかさどり給う教会のみは、これを誤りなく解くことができる。
聖パウロの書簡については、使徒聖ペトロでさえ、
「彼はすべての手紙の中で、そのことを述べています。その手紙の中には理解しにくいところもあり、無学な人や、心の定まらない人は、他の聖書と同じように、これを曲解し、みずから滅びを招いています」(ペトロ後書3:16)と言っている。
【新教(プロテスタント)】
キリスト信者は誰でも自分で聖書を解することができるものであって、常に真面目に、しかも解することができるように祈りながら読めば、明らかに救いの道を知ることができるものである。
【反駁】
1、ルーテルは、聖書を読んで、善業は救霊を得るに必要なものでないということを言い出したが、今では多くの新教徒達は、善業は救霊のために必要であると思っている。それならば、いずれが救いの道を明らかに知ったものであろうか。
2、すべての教父たちは、真面目にしかも解し得るように祈りつつ聖書を読んだけれども、新教徒とは全く違った救いの道を認めたのである。それならば、どちらが正しいであろうか。
3、新教徒は、聖霊は、正直に聖書を研究するものには、真の意味を解き明かし給うと思っている。しかし、キリストの神性及び聖体の秘跡のような、最も重大な点について、彼等は互いに相容れない説を立てているが、これはどうしたことであろうか。果たして聖霊は、ある人にはこの事を他の人には反対なことを教え給うものであろうか。
●注意1
新教徒は、公教会は信者に聖書を読む事を禁じると主張する。これは、全く嘘の説である。公教会は信者に聖書を読ませるが、ただ、次の3つの点を注意するのみである。
第1
公教会は、ラテン語又はギリシャ語又はヘブライ語の聖書を読むことのできない人々が、翻訳の聖書を読むときには、教会から認可されたものを使うべきことを命ずるのである。それは、新教徒は至る所に誤訳の聖書をひろめているので、無学な公教徒が誤りに陥らないようにするためである。
第2
翻訳書を用いるときは難解のところには正しい注釈のあるものを用いることをすすめる。もしそうしないと、誤訳のために大いなる禍を招くおそれがある。
●注意2
新教徒は、さらに、
「ルーテルは机の下から聖書をひろいだした」と主張している。
すなわち、ルーテルの前には聖書というものはごくわずかの人々に知られたのみで、公教会は聖書の宣伝に何もつとめなかったと言いたいのである。
しかし、実際は、その反対である。すでに中世期において、特に印刷術の発明以後には、聖書のように、公教徒の国民に知られ、かつこれほど多く広まった本はなかった。ドイツ語の翻訳でさえ、ルーテルの前にすでに17種あった。
また、ルーテルの聖書の翻訳は誤謬がいっぱいで、新教徒の学者(ブンゼン)でさえ、ルーテルの翻訳中には三千箇所の誤訳があると言っている。その聖書を見れば、容易にルーテルは翻訳の中に、自分の意見をつけ加えようとしたものであることが証明される。
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