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フランツ・フィンゲル神父「分離の教会」『汝巌なり』山形天主公教会、1926年
教会の創立と組織に関する聖書の言葉と象徴を調べてみますと、イエズス・キリストが数多の教会を創立しないで、唯一の教会だけを創立し、これに根本的の組織を与えたもうたというのは、確かな事実であります。
現代では、キリストの定めたもうたカトリック教会のほかに、様々の比較的小さな他の教会が存在しますが、これらは、分離と離教の結果にほかならないのであります。
この章では、まず、いわゆる分離の教会の話をいたしましょう。
本章の3節は、「教会と国家」「ギリシア正教の起源」「ロシア正教のこと」であります。
1、教会と国家
教会の目的は、イエズス・キリストの救世主たる使命を世の中に続けることであります。
すなわち、イエズス・キリストの指名は、人々を罪から救い、善徳の道を歩ませ、天国の永遠の幸福に導くことであります。
教会の使命もまた同じとおりであります。
公教要理に書いてあるように、人のこの世に造り出されたのは、天主を認め、天主を愛し、天主に仕え、最終的に天国の福楽を享けるためであります。
この世の中にある種々の国家及び教会の大きな差別を明らかにするために、キリストは御死去の日に裁判所で、
「我が国は、この世の国にあらず」(ヨハネ18・26)
と、公に宣言されました。教会と国家とは、幾多の方面において関係があっても、その性質と目的とは違いますから、両団体の権威者が、各自の権限の範囲内にとどまるならば、衝突の危険は少しもないのであります。同じ人々が国家の臣民であると同時に教会の信者であるということには、何の差し支えもありません。公教会の信者であるから、国家に対する義務を十分に尽くすことができないというのは、愚かな話で、そんなことは全く讒言にほかなりません。むしろ、公教会の信者方こそは、公教に従って、信仰上かつ道徳上の義務を熱心に果たせば果たすほど国家にもなお忠実を守って、臣民としての一切の義務を一層熱心に果たすのであります。
あるとき、多くの群衆は、聖なる教えを聞こうと思って、大なる熱心をもって、八方からキリストの許に集まって長くとどまりましたので、遂に持ってきた食料もなくなり、飢えても食べられませんでした。キリストは、群衆のこの有様を見て、深く同情し、彼らを助けるとともに、偉大な奇蹟をもって御自分が天の使者であることを、彼らの眼の前に、証明しようとして、神の全能によって
、5つのパンと2匹の魚とを大変に増やし、これをもって、5000人以上の群衆を満腹させました。群衆は、この偉大な奇蹟に感激して、キリストを自分たちの王に戴きたいと希望しました。キリストが、彼らの希望を知って、まず、彼らの前から御身を隠され、その翌日彼らの心を地上の事柄から天の方へと向上させるために、御聖体という最も意味の深い奥義のことを彼らに述べられました。このように群衆の信仰を試しつつ、あまりにも俗世間的であった信仰の足らない人々を御自分から去らせになりました。
ユダヤ国に、ずいぶん勢力のある党派であった、いわゆるファリサイ人は、自分たちの俗世間的な利己心と、野心とに惑わされて
、宗教と世間のこととを混同して、宗教上の熱心の仮面の下に、皇帝に税金を払うことを否むほど、間違った思想を広めました。ある日、ファリサイ人は、キリストに向かって
「師よ。あなたが真実に、真理によって神の道を教え、かつ、人にえこひいきしないことで、誰にも憚らないのは、私たちの知っているところです。そうでしたら、そうでしたら、ローマ皇帝に貢を納めるのは、良いことですか、悪いことですか。御考えを私たちに言ってください。」
と言いました。
イエズス・キリストは、彼らの問いに答えて、
「偽善者よ。どうして私を試みるのか。貢の貨幣を私に見せなさい」
とおっしゃいました。彼らが、デナリオという銀貨を差し出したところが、イエズス・キリストは神にも皇帝にも相当な義務を果たさなければならないと教えて、この問題を解決して、簡単に
「だから、カエサルのものはカエサルに帰し、神のものは神に帰せ」(マタイ22・16)
とお答えになりました。
イエズス・キリストは、彼らの問いに答えて、
「偽善者よ。どうして私を試みるのか。貢の貨幣を私に見せなさい」
とおっしゃいました。彼らが、デナリオという銀貨を差し出したところが、イエズス・キリストは神にも皇帝にも相当な義務を果たさなければならないと教えて、この問題を解決して、簡単に
「だから、カエサルのものはカエサルに帰し、神のものは神に帰せ」(マタイ22・16)
とお答えになりました。
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