『アジア専制帝国 世界の歴史8』社会思想社、1974年
12 恩恵と威圧の世
4 丁税の廃止
清朝は一六四四年、北京に入城すると、民心を安定する一策として、三餉(さんしょう)とよばれた明末の三つの悪税を、さっそく廃止するよう命じた。
しかも、それが善政であるかのように伝えている。
いったい、三餉とは何か。三つの悪税といわれた遼餉(りょうしょう)と剿餉(しょうそう)と練餉(れんしょう)との総称である。
ともに明末の臨時軍事費として、田上に付加した税である。
遼餉(りょうしょう)は、遼東地方における対清軍事費にあてるために(一六一六)、剿餉(しょうそう)は、国内の反対勢力を鎮定するに必要な軍事費として(一六三七)、また練餉(れんしょう)は、辺境の軍隊の訓練費を調達するために(一六三九)、それぞれ徴収しはじめたものである。したかって三餉は、あいつぐ軍事費の不足をおぎなうため、つぎつぎと名目を設け、税の増額をはかったものといえよう。
「賊の平定には兵を要し、兵の養成には餉(しょう=軍費)を要す。されど餉は民によるほかはなし。
よって民に一年の助力をもとむるも、またやむなし。」
こういう弁明をして徴収したのが、剿餉である。それでも軍事費は不足をつづけた。
しかし、おなじ泣きごとでは通用すべくもない。苦肉の策として、
「いま、田土を所有する者の多くは富豪にあり。ゆえに付加税の増加は、富豪の土地兼併を抑圧するの効あり。」
という意味にもとづいて徴収したものが練餉であったという。
しかし付加税とはいえ、額は正税に倍し、年間一千七百万両におよんだといわれる。
これでは農民が苦しむのも、また当然といえよう。
種をまくのは為政者で、あと始末の負担に苦しむのは人民である。
決して為政者のたくわえた巨額の私財をあてようとはしない。似た現象は、現代の社会にも多い。
清朝が三餉を廃止したことは、その名目からみて当然のことである。
こうした明末の臨時付加税を廃した清朝は、その後の康煕から乾隆にかけて、しばしば免税をおこなうなど、善政を推進したといわれる。
また地丁銀(ちていぎん)の制を施行して、古来の丁税(人頭税)を廃止したのが特筆される。
「いまや、太平の世となってすでに久しく、戸口は日ごとに増加の一途をたどっている。
それゆえ人丁を把握して、銭糧を徴収することは、容易ではない。
人丁は増加しても、それに比例して田上がひろくなるわけではない。
これよりのちは、現在の台帳に記載されている人丁数を規準として、ふやすこともへらすこともなく、ながく定額としたい。
よって、以後に増加する人丁は、銭糧の徴収をやめ、別台帳に数のみ記載せよ。
余が地方を巡幸したときの見聞では、一戸に五~六人の人丁がいながら、銭糧をおさめているのは一人、などというのが実情であった。
理由をただしたところによると、余の宏恩(こうおん)に浴して税をまぬがれ、安楽をえたいためとのことであった。
理由はもっともである。ただ、これでは天下の人丁の実数がわからない。
平和の回復した現在では、田土の復興やあらたな開墾も終わり、もはや田土をひろげる余地はない。
しかも財政はゆたかで、不足のおそれもない。したかって銭糧の増徴をはかる必要はない。
これからは銭糧の増徴をやめ、人丁数の正確な把握をしたい。
それは民のためによいばかりでなく、わが朝の盛事をしめすことにもなろう。
余は人丁の実数を知りたいだけである。」
康煕五十一年(一七一二)、帝はこのような内容の勅諭をくだし、翌年以後に増加した人丁数は別の台帳に登録させた。
この新しい台帳を滋生冊、記載された免税人丁を盛世滋生人丁などとよんでいる。
盛世滋生人丁制の実施によって、徴税の対象となる人丁数は固定し、徴収する丁銀も固定することとなった。
そこで考えだされたのが、丁税を地税のなかにくりいれ、丁税としての独立項目をなくすことであった。
こうして成立したのが、地丁銀(土地税と人頭税を合せた税)制とよばれるものである。
地丁銀をめぐる学者の解釈はいろいろであり、決して一致はしていない。
けれども、古来の丁税という独立の税目がなくなり、地丁銀の名で、やがて全国に普及し、清末まで財政上の重要な収入源となっていたことは事実である。
要するに、それは丁銀の総額を固定したことによっておこったものであり、地丁銀の名のように、丁銀がまったく消滅したものとはいえない。
清朝は、こうして免税をおこない、また丁税の総額を固定したりしながら、しかも清初の国庫には余裕があったと伝えられている。
それは節約や、支出の引きしめによるともいわれる。はたして、それだけであろうか。