マキシム・プイサン神父「地獄(第二の死と云われる永遠の滅び)」『煉獄と地獄』岸和田天主会教会、1925年
30.地獄では聖寵が受けられない
聖寵は罪人にとって、第一基礎的治療にして、天主を離れて霊的死をした罪人のためよみがえりの基となる。
主の聖言葉に「我は甦りなり、生命なり」(ヨハネ十一~二十一)とある。
聖寵の賜物によっては、一度生命を失った霊魂も甦える。又悪魔の誘惑に勝ち、罪を犯さぬならば、これなお聖寵の冥助である。罪の赦宥をこうむるにはぜひ聖寵が必要であるが、地獄では受けられぬ。よって悔い改めが出来ぬ。罰の原因は罪であり、その罪は常に彼らに存在する。
また、罰は罪の結果としていつまでも存在するが、大罪をもっている故に聖寵がない。それで悔い改めが出来ない。悔い改めが来なければ改心はない。改心がないために罪の赦宥がない。罪の赦宥をこうむるには、先ず第一、罪を嫌わねばならぬ。罪を嫌うには聖寵が基礎である。聖寵が受けられぬから罪を嫌うことが出来ぬ。罪を嫌わず、唯罰のみを嫌うは、地獄に在る罪人の恐ろしい運命である。
聖ベルナルドの言葉に
「罪人はいつも亦必ず、思行した悪を望む。彼と悪とは一致して、永劫、生きた如き罪である。善人が天国に於いて、天主の美善、美徳を拝し愛に充たされて、必ず、天主を愛する如く、罪人は唯、天主の正義なる罰を見て、必ず、天主を憎み嫌って悪に固定した意志は、不変なる罰を受くる。これ正義ではないか」
有名な説教者コルデンの言葉を聞け、彼は云う
「愛の本源なる天主は罪人の救霊のため、その御ひとり子イエズス・キリストの御血を全く流し尽させ給うた。
その最上の愛も、罪人が軽侮せられたため、この限りなき愛は、罪人を呪うのである。諸君、考えよ、我らのため天主なる聖子は人骸を受け、我等と同質性をもって三十三年間、苦労し給うたのみか、何時も我らのため大恥辱を甘んじ受け、軽蔑、顛難の果てに、磔殺され給うた。これをよく知っている我々がこの愛を侮辱する事が出来るか。
主の御苦難を嘲弄し、臆面なく、凡ての肉慾的不潔な快楽に陥ることを無害になし給うか。目醒めよ、諸君、愛は戯れではない。十字架上に死ぬまで、我々を愛し給うたイエズス・キリストより、害をこうむらずに背くことが出来ようか。地獄に墜ちた罪人は全くそのためである。」云云