『文芸復興の時代 世界の歴史7』社会思想社、1974年
9 カルバンとフランス・ルネサンス
4 カルバン派の都ジュネーブ
ジュネーブにおけるカルバンの仕事は、まず改革派としての教会を再組織することであったが、その礼典、儀式や讃美歌、祈祷(きとう)文などはすでにストラスブールの時代にできていた。
また彼は、市当局から教会をきりはなし、長老会議が聖書の主旨にしたがって市民生活を監視し、指導することとした。
長老とは信仰も日常の行ないもすぐれた市民のことである。
カルバンは公式の地位にはつかなかったが、うしろから長老会議を動かしたことはいうまでもない。
そしてはでな服装や身のまわり品は禁止され、娯楽や料理も制限され、書物の印刷には許可がいり、外国あての手紙は許されず、客は宿屋の主人に素姓をさぐられ、子供の名前にはイサク、アダムなど聖書に出てくる名が強制される……といったようなありさまであった。
あちらこちらスパイを放って市民生活をとりしまったといわれるカルバンが、犯罪として告発した事件のなかには、たとえば、つぎのようないささかこっけいなものもあった。
ダンスをしたこと。
ローマ教皇をりっぱな人だといったこと。
礼拝中にさわいだこと。
説教中に笑ったこと。
七十歳の女性が二十五歳の男と結婚しようとしたこと。
カルバンを諷刺(ふうし)した歌をうたったこと。
カルバンは中肉中背、顔色は蒼白(あおじろ)く、澄んだ目はいかにも意欲的であった。
食物も衣服もつつましく、睡眠は少なくて、知的な仕事に集中することができ、記憶力は強く、派手な弁舌ではないが、それは簡潔で聞くひとに訴えた。
交際はせまいほうではないが、心をうちおける友は少なかった。
そして使命感に燃え、制御しがたいまでに潔癖な気質をもち、激情にはやるまでに神経質な性分であるカルバンには、たしかに粛清のうえでゆきすぎがみうけられた。
死刑、追放、投獄、破門、罰金等々のきびしい刑罰が市民たちにふりかかった。
しかし一方では彼のまわりには、とくに上流市民階級のなかに、個人の自由をおかされまいとして、カルバンに反対し、これを倒そうとねらっている人びとがいたので、彼としては少しのすきをも見せない、峻厳(しゅんげん)きわまりない態度でのぞまなければならなかったのだ。
急激で徹底した改革には、それが理想をかかげていればいるほど、いつの世でもゆきすぎをともなうのが人間の宿命であろうか。
こうした粛清のなかで、カルバンの大きなあやまりとして、いまもって批判されているのがセルベ事件である。
ミシェル・セルベ(一五一一~五三)は、元来カトリックの国スペイン生まれであるが、一五二八年、十七歳のときフランスへ行き、この国でプロテスタントとなるとともに、血液の循環などに関する天才的な学者に成長していった。
医者としても親切で、いくつかの美談が伝えられている。
ところが彼はプロテスタントをさえのりこえて、ルターやカルバンも認めている三位(さんみ)一体説を否定するようになった。
したがってセルベはカトリックとはむろんのこと、プロテスタント側とも対立した。
そして一五五三年四月、彼は異端としてカトリック側につかまったが、逃亡してイタリアに向かう途中、八月ごろ、ジュネーブにたちよった。
すでにセルベとカルバンとのあいだには、文通が行なわれていた。
しかし教えさとそうとしたカルバンは、セルベの高慢な態度にぶつかり、自分も高慢であるだけにカチンときてしまった。
そのうえセルベは、カルバンの『キリスト教綱要』の欄外に、まちかっていると思われる点を書きこんで、著者のもとへ送ったのだ!
さらに彼は自分の信仰告白の作品に、カルバンの書に対比されるような『キリスト教の復位』という名をつけた!
カルバンは腹だたしさを、友への手紙のなかにぶちまけている。
「もしセルベがジュネーブにやってくるようなことがあれば、私の目が黒いかぎり、生きてはこの地を去らせませぬ。」
このセルベがどうして、よりによってジュネーブに姿を現わしたのであろうか?
ただほんの道すがら立ちよったのか? カルバンを説得するつもりであったのか?
ちょうどそのころ、カルバンが敵と対立し、形勢不利とさえみえたので、これに乗じて論敵に挑戦しようとしたのか?
人間というものはゆきづまったとき、危険と知りながらあえてそのなかへはいってゆくものであろうか?
ともかくこの謎は永久にとけそうにもない。
セルベがジュネーブにいることを知ると、カルバンは彼を告発し、ただちに逮捕、投獄となった。
それから不衛生な牢獄生活と、何回にもわたるきびしい尋問ののち、一五五三年十月、セルベは異端者として火刑に処せられてしまった。
牢獄で病気に苦しみ、寒さとしらみに悩まされて衰えはてたセルベは、見るも無残な姿で火刑台にしばりつけられた。
しかも生木(なまぎ)を用いため、火をつけてもなかなか燃えず、とろ火と煙のなかで、セルベは半時間におよんでもだえ、苦しみながら、さけびつづけた。
「永遠なる神の手、主キリストよ、われをあわれみたまえ。」
しかしこの哀れなぎせい者は最後まで、その確信についてなにひとつ取り消そうとはしなかった……。
このあいだ、いっさいを仲間と刑吏たちにまかせたカルバンは、窓をしめきった自分の書斎にひきこもったままであったという。
つぎの日曜日、黒い僧服をまとった彼はおごそかに説教壇上にのぼり、自分の行為を偉大で必要、かつ正当であったと自画自讃した。
このカルバンのセルベに対する苛酷きわまりない態度は、彼の支持者のあいたにもさまざまな反響をひきおこしたし、のちのちまでいろいろと論じられた。
なかにはカルバンの権勢欲とか、セルベが『キリスト教綱要』を批判したことに対する個人的なうらみだというような見解もあるし、あるいは、新旧対立がきびしい当時の環境が行なわせたあやまちだという意見もある。
ともかくカルバン主義の人びとさえも、これは偉大な師の大きな過失であることを認めざるをえなかった。
この事件から三百五十年ものち、一九〇三年、セルベが火刑となったジュネーブ市のシャッペルの丘に、ひとつの石碑がたてられた。
それはカルバン主義のプロテスタントたちが、この火刑を「師父の世紀の誤謬(ごびょう)」と認め、信教の自由を守りつつ、罪をつぐないたいという贖罪(しょくざい)記念碑であった。