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3-10-8 始皇帝の崩御

2018-09-24 17:53:23 | 世界史
『東洋の古典文明 世界の歴史3』社会思想社、1974年

10 秦の始皇帝

8 始皇帝の崩御

 即位して三十六年(前二一一)、星が落ちて石となった。隕石(いんせき)である。
 その石の上に、「始皇帝死而地分」(皇帝が死んで地が分れる)ときざんだ者があった。
 これを聞くと始皇帝は、役人をやってしらべさせたが、ついにきざんだ者をみつけだせなかった。
 そこで近辺にすむ者をみなごろしにし、その石を焼いてとかした。
 始皇帝は怏々(おうおう)として楽しまなかった。
 三十七年(前二一○)、五回目の巡遊をおこなった。とくに末子の胡亥(こがい)も、供をねがってゆるされた。
 皇帝の一行は、まず南の地方をまわったのち、北上して山東にいたる。このとき、さきに海上にでた徐福が、仙薬をえられぬままに、いつわりの上言をなした。
 「蓬莱(ほうらい)の薬は求められるのですが、いつも大鮫(さめ)にくるしめられ、島までゆけません。
 願わくは弓の上手をつけていただき、あらわれたならば連発の強弓で射たいと存じます」
 そこで大魚がでたら、始皇帝みずから射ようと、海岸にそってすすんだ。山東の北岸の之罘(しふ)までたっしたところ、大魚がでた。その一魚を射殺した。

 それから海岸にそって西行し、平原(へいげん)までいって、病気になった。病状は日に日に悪化した。
 始皇帝は長子の扶蘇(ふそ)にたまわる詔書をつくり、「ただちに咸陽(洛陽近郊の黄河北岸)にもどって葬事をおこなえ」と命じた。
 詔書は封印され、宦官の趙高(ちょうこう)にわたされた。
 しかし趙高が使者を発する前に、始皇帝は沙丘において崩じた。五十歳であった。
 丞相の李斯(りし)は、崩御によって天下に反乱のおこることをおそれ、喪(も)を発しなかった。
 おりから七月の暑いさなかである。棺は温涼(おんりょう)車にのせられた。
 車上に窓をつくり、とじれば温かく、ひらけば涼しくなるようにした車である。
 かねて恩寵をうけた宦官を同乗させ、生前のように食事をたてまつった。
 百官の奏上も生前のままで、その宦官に車のなかで裁決させた。
 始皇帝の死を知っている者は、公子の胡亥と、趙高と、側近の宦官五、六人のみであった。
 かねてより趙高は、胡亥と親しい。そこで李斯とはかって陰謀をめぐらし、扶蘇にたまわった詔書を破りすてた。
 そして胡亥を立てて太子とした。
 また別に、扶蘇と蒙恬(もうてん)にたまわる詔書を偽造し、皇帝の御璽(ぎょじ)を押して封じたうえ、北方の軍陣に使者を発した。
 にせの詔書には、両名に「死をたまわる」としるされた。
 詔書をひらくと、扶蘇は涙をながしながら、ただちに自殺した。
 蒙恬は、いつわりの使者かと考えて、死のうとはしなかった。役人が引きたて、獄に投じた。
 その間に、始皇帝の行列は咸陽をめざしてすすんでいた。暑さがはげしかった。
 ために棺を乗せた車は臭気をはなちはじめた。そこでくさい塩づけの魚を一石あまり、車にのせた。
 においをまぎらせたのであった。こうして行列は咸陽につき、はじめて喪を発した。
 胡亥は位をついで、二世皇帝となった。九月、始皇帝を驪山(りざん)の陵にほうむった。
 そのとき二世の命令があり、先帝の後宮にいて子のない者は、みな殉死させられた。
 葬儀がおわると、工匠は内部の模様を知っているから、それが外部にもれては大事であるという意見があった。
 そこで墓室に通ずる地下道の中門をとざし、ついで外門を下ろし、ことごとく工匠をとじこめて出られぬようにした。
 陵の上には草木をうえて、山にかたどった。


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