『東洋の古典文明 世界の歴史3』社会思想社、1974年
10 秦の始皇帝
8 始皇帝の崩御
即位して三十六年(前二一一)、星が落ちて石となった。隕石(いんせき)である。
その石の上に、「始皇帝死而地分」(皇帝が死んで地が分れる)ときざんだ者があった。
これを聞くと始皇帝は、役人をやってしらべさせたが、ついにきざんだ者をみつけだせなかった。
そこで近辺にすむ者をみなごろしにし、その石を焼いてとかした。
始皇帝は怏々(おうおう)として楽しまなかった。
三十七年(前二一○)、五回目の巡遊をおこなった。とくに末子の胡亥(こがい)も、供をねがってゆるされた。
皇帝の一行は、まず南の地方をまわったのち、北上して山東にいたる。このとき、さきに海上にでた徐福が、仙薬をえられぬままに、いつわりの上言をなした。
「蓬莱(ほうらい)の薬は求められるのですが、いつも大鮫(さめ)にくるしめられ、島までゆけません。
願わくは弓の上手をつけていただき、あらわれたならば連発の強弓で射たいと存じます」
そこで大魚がでたら、始皇帝みずから射ようと、海岸にそってすすんだ。山東の北岸の之罘(しふ)までたっしたところ、大魚がでた。その一魚を射殺した。
それから海岸にそって西行し、平原(へいげん)までいって、病気になった。病状は日に日に悪化した。
始皇帝は長子の扶蘇(ふそ)にたまわる詔書をつくり、「ただちに咸陽(洛陽近郊の黄河北岸)にもどって葬事をおこなえ」と命じた。
詔書は封印され、宦官の趙高(ちょうこう)にわたされた。
しかし趙高が使者を発する前に、始皇帝は沙丘において崩じた。五十歳であった。
丞相の李斯(りし)は、崩御によって天下に反乱のおこることをおそれ、喪(も)を発しなかった。
おりから七月の暑いさなかである。棺は温涼(おんりょう)車にのせられた。
車上に窓をつくり、とじれば温かく、ひらけば涼しくなるようにした車である。
かねて恩寵をうけた宦官を同乗させ、生前のように食事をたてまつった。
百官の奏上も生前のままで、その宦官に車のなかで裁決させた。
始皇帝の死を知っている者は、公子の胡亥と、趙高と、側近の宦官五、六人のみであった。
かねてより趙高は、胡亥と親しい。そこで李斯とはかって陰謀をめぐらし、扶蘇にたまわった詔書を破りすてた。
そして胡亥を立てて太子とした。
また別に、扶蘇と蒙恬(もうてん)にたまわる詔書を偽造し、皇帝の御璽(ぎょじ)を押して封じたうえ、北方の軍陣に使者を発した。
にせの詔書には、両名に「死をたまわる」としるされた。
詔書をひらくと、扶蘇は涙をながしながら、ただちに自殺した。
蒙恬は、いつわりの使者かと考えて、死のうとはしなかった。役人が引きたて、獄に投じた。
その間に、始皇帝の行列は咸陽をめざしてすすんでいた。暑さがはげしかった。
ために棺を乗せた車は臭気をはなちはじめた。そこでくさい塩づけの魚を一石あまり、車にのせた。
においをまぎらせたのであった。こうして行列は咸陽につき、はじめて喪を発した。
胡亥は位をついで、二世皇帝となった。九月、始皇帝を驪山(りざん)の陵にほうむった。
そのとき二世の命令があり、先帝の後宮にいて子のない者は、みな殉死させられた。
葬儀がおわると、工匠は内部の模様を知っているから、それが外部にもれては大事であるという意見があった。
そこで墓室に通ずる地下道の中門をとざし、ついで外門を下ろし、ことごとく工匠をとじこめて出られぬようにした。
陵の上には草木をうえて、山にかたどった。
10 秦の始皇帝
8 始皇帝の崩御
即位して三十六年(前二一一)、星が落ちて石となった。隕石(いんせき)である。
その石の上に、「始皇帝死而地分」(皇帝が死んで地が分れる)ときざんだ者があった。
これを聞くと始皇帝は、役人をやってしらべさせたが、ついにきざんだ者をみつけだせなかった。
そこで近辺にすむ者をみなごろしにし、その石を焼いてとかした。
始皇帝は怏々(おうおう)として楽しまなかった。
三十七年(前二一○)、五回目の巡遊をおこなった。とくに末子の胡亥(こがい)も、供をねがってゆるされた。
皇帝の一行は、まず南の地方をまわったのち、北上して山東にいたる。このとき、さきに海上にでた徐福が、仙薬をえられぬままに、いつわりの上言をなした。
「蓬莱(ほうらい)の薬は求められるのですが、いつも大鮫(さめ)にくるしめられ、島までゆけません。
願わくは弓の上手をつけていただき、あらわれたならば連発の強弓で射たいと存じます」
そこで大魚がでたら、始皇帝みずから射ようと、海岸にそってすすんだ。山東の北岸の之罘(しふ)までたっしたところ、大魚がでた。その一魚を射殺した。
それから海岸にそって西行し、平原(へいげん)までいって、病気になった。病状は日に日に悪化した。
始皇帝は長子の扶蘇(ふそ)にたまわる詔書をつくり、「ただちに咸陽(洛陽近郊の黄河北岸)にもどって葬事をおこなえ」と命じた。
詔書は封印され、宦官の趙高(ちょうこう)にわたされた。
しかし趙高が使者を発する前に、始皇帝は沙丘において崩じた。五十歳であった。
丞相の李斯(りし)は、崩御によって天下に反乱のおこることをおそれ、喪(も)を発しなかった。
おりから七月の暑いさなかである。棺は温涼(おんりょう)車にのせられた。
車上に窓をつくり、とじれば温かく、ひらけば涼しくなるようにした車である。
かねて恩寵をうけた宦官を同乗させ、生前のように食事をたてまつった。
百官の奏上も生前のままで、その宦官に車のなかで裁決させた。
始皇帝の死を知っている者は、公子の胡亥と、趙高と、側近の宦官五、六人のみであった。
かねてより趙高は、胡亥と親しい。そこで李斯とはかって陰謀をめぐらし、扶蘇にたまわった詔書を破りすてた。
そして胡亥を立てて太子とした。
また別に、扶蘇と蒙恬(もうてん)にたまわる詔書を偽造し、皇帝の御璽(ぎょじ)を押して封じたうえ、北方の軍陣に使者を発した。
にせの詔書には、両名に「死をたまわる」としるされた。
詔書をひらくと、扶蘇は涙をながしながら、ただちに自殺した。
蒙恬は、いつわりの使者かと考えて、死のうとはしなかった。役人が引きたて、獄に投じた。
その間に、始皇帝の行列は咸陽をめざしてすすんでいた。暑さがはげしかった。
ために棺を乗せた車は臭気をはなちはじめた。そこでくさい塩づけの魚を一石あまり、車にのせた。
においをまぎらせたのであった。こうして行列は咸陽につき、はじめて喪を発した。
胡亥は位をついで、二世皇帝となった。九月、始皇帝を驪山(りざん)の陵にほうむった。
そのとき二世の命令があり、先帝の後宮にいて子のない者は、みな殉死させられた。
葬儀がおわると、工匠は内部の模様を知っているから、それが外部にもれては大事であるという意見があった。
そこで墓室に通ずる地下道の中門をとざし、ついで外門を下ろし、ことごとく工匠をとじこめて出られぬようにした。
陵の上には草木をうえて、山にかたどった。