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10-1 胃袋と手足の争い

2018-03-10 05:23:57 | 世界史
『古代ヨーロッパ 世界の歴史2』社会思想社、1974年

10 世界帝国への道

1 胃袋と手足の争い

 エトルリア人のローマ支配が紀元前五〇〇年ころ転覆したということは、大きな歴史的意味をもっている。
 エトルリア人の王家をローマから追放することに成功したのは、ローマ人がそれだけの実力をそのころまでに貯えていたことによる。
 ローマで王政が倒れた時代には、シチリアでも、またアテネでも僭主(せんしゅ)が倒れ、平民の力がしだいに台頭してきた。
 ローマでも、貴族と平民との差別は、初めはそれほど厳重なものでなく、両者のあいだの結婚も自由であった。
 またローマ以外の各地の貴族も、ローマに移り住んで、ローマの貴族になることも許されていた。
 しかし、貴族は紀元前五世紀初めころまでにしだいに平民に対して門戸を閉ざし、平民とは結婚しないことになり、政権と祭事を独占する特権的身分となった。
 王に代わって最高の政務をつかさどったり、軍隊に命令を下す大権(インペリウム)をもつ執政官(コンスル)もご元老院議員も、貴族のなかからだけ選んだ。
 もっとも独裁政治にならないように、執政官は毎年二人たてられた。
 ただ国家の非常時にだけ、半年の期間を限り、独裁官(ディクタトル)をおいて、一人の手に絶対的な命令権を委(ゆだ)ねた。このようにして平民は、政治への参与から閉め出されたばかりでなく、小農民の多い平民たちは経済的圧迫をうけて、借金を余儀なくされ、なかには借金が返せないために、外国に奴隷として売られるものもでた。
 そこで平民はこれに抵抗し、「聖法」とよばれる宗教的団結の形式による強固な軍隊組織を作り、ローマ共同体から離脱し、ローマ東北方約五キロの聖山(モンス・サケル)とよばれた丘に陣営を設け、新しい国家をつくることにとりかかった。
 貴族より数が多い平民がいなくなっては、ローマも国家としての活動が麻痺(まひ)してしまうので、貴族も困って、メニウス・アグリッパという元老院議員を平民のところに使いにやった。
 アグリッパは平民に胃袋と手足のたとえ話をした。むかし、手足は胃袋だけがうまいものを食って、われわれをただ働きさせていると不平に思って、胃袋を困らせてやれとばかり、食物のある場所に行かなかったり、食物を口に運ばなくなったりした。
 そのため胃袋も飢えに苦しんだが、手足もなえて共倒れになりそうになった。
 こうして初めて手足は胃袋の役目がわかった。貴族と平民のあいだがらも、これと同じだとアグリッパは説いた。
 彼の話をきいて平民もなっとくし、ローマに帰った。貴族も譲歩して貧乏な平民の借金を帳消しにし、借金で奴隷になっていた者を買いもどしてやり、とりわけ平民のなかから護民官という役を二人選んで、平民の立場を守る政治上の権利を与えた。
 護民官の身体には、だれでも危害を加えることは禁ぜられ、またその家は夜中でも戸口は開けられていて、平民がいつでも、かけこみ訴えができるようにしてあった。
 護民官は初めクリア会に集まった平民によって選ばれ、のちには平民会によって選ばれることになった。
 護民官の職務は執政官(コンスル)などの政務官の行動を監視して、平民に不利な場合にはこれを拒否する権利をもった。
 しかし護民官は平民だけで選んだものであるから、国民全体の政務官ではなかった。
 したがって護民官は厳密な意味で合法的存在ではなかったので、平民は彼ら自身の力で守らなければならなかった。
 そこであの「聖法」による堅い団結をそのまま存続させることを誓い、これにそむく場合には生命財産をも失うこととした。


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