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6-11-3 侵略の災禍

2023-08-02 16:28:23 | 世界史
『宋朝とモンゴル 世界の歴史6』社会思想社、1974年
11 悲劇の朝鮮半島    
3 侵略の災禍

 モンゴルの侵略は、オゴタイからグユクヘ、さらにモンゲの代にいたるまで、やむことなくつづけられた。
 モンゴル兵のゆくところ、民家は焼かれ、家財はうばわれた。逃げおくれた者は殺され、捕えられた。
 「鶏犬一空」――ニワトリもイヌも、まったくいなくなる――――という村も少なくなかった。
 一二三四年における侵攻にあたっては「とらえられた男女は、無慮(むりょ)二十万六千八百余人、殺された者は数えるこどもできない、(モンゴル兵が)過ぎたところの州郡は、みな灰塵(はいじん)となった」と伝えられている。
 それからのちも、モンゴル軍には秋にたると押しよせてきた。
 田畑のみのりを刈りつくし、てむかう者はことごとく殺した。人民にとっては、何の手だてもない。
 モンゴルが来る、と聞けば、その身ひとつで山のなかに逃げこむよりほかになかった。
 江都だけが平和であった。
 国土と人民の疲弊をよそに、宮廷の儀式はとどこおりなくつづけられていた。
 崔氏の政権も、島をうごかぬ限りは安泰なのであった。
 彼らが国家と人民のためになしたことといえば、ひたすら仏力にすがり、しきりに法要をいとなんて、怨敵の退散をいのるばかりであった。
 おどろくべきことがある。高麗では、印刷術が発達していた。
 印刷術の起源は、もちろん中国にあり、唐の則天武后の時代(七世紀末)には、すでに整版の印刷が行われていた。
 そのころの印刷物ものこっている。
 その技術はわが国にも伝わり、奈良時代の末(七七〇)には「百万塔陀羅尼(だらに)」が印刷された。
 その後、中国では宋代にいたって、大いに印刷術が進歩し、普及した。
 十世紀の末には、「大蔵経」五千四十巻が完成している。
 これをうちついだのが高麗であった。
 高麗王朝では仏教への尊信があつかったから、いちはやく「大蔵経」を印行した。
 十一世紀には、じつに三回もの開板が行われている。
 ところが、この版木(はんぎ)は、第二回のモンゴル侵入にあたって、焼かれてしまった。
 そこで江都の宮廷では、版木のつくり直しをおこなったのである。
 信仰のためとはいいながら、そして立派な文化事業であるには違いないけれども、兵乱による人民の苦しみを考えるならば、宮廷の人々の感覚はおどろくべきことといわねばならないだろう。
 このとき(一二三六~五一)の版木は八万六千余枚で、いまでも残っている。
 それにしても、仏の加護はいっこうに高麗の国土と人民のうえには下らなかった。半島は疲弊の極におちいった。
 モンゴル軍は、くりかえし国王みずからの入朝と、島を出て旧都にかえることを求めている。
 ついに江都においても、不満は爆発した。
 高宗の四十五年(一二五八)、崔氏四代目の崔誼(さいぎ)が暗殺され、六十年におよぶ崔氏の政権もおわりをつげたのである。
 高宗は、国王となってから四十五年目に、親政をおこなうにいたった。そして、親政の手はじめが、モンゴル軍に降伏を申しいれることであった。

 しかし高宗は、すでに六十七歳、そのうえ重病のために、とうてい動くことはできない。
 よって太子がかわってモンゴル人汗のもとにおもむいたのであった。
 太子は、首尾よく任を果たした。
 いまや高麗は、完全なモンゴルの属国となってしまったけれども、その軍勢による恐るべき殺傷と破壊から、まぬがれることができるようになった。
 しかも大汗となったフビライは、さらに恩命をくだしたのである。
 「服装はそのまま古来のものを用いよ、改めるには及ばない。
 行く者も、朝廷からつかわすものだけにとどめ、ほかはすべて禁絶しよう。
 古京にかえることも、力に応じて遅速をはかれ。駐留の軍は秋までに引きあげさせよう。……」
 いよいよ寛大な言葉であった。それも、たしかに実行された。
 その年(一二六〇)のうちに、高麗の国内からダルガチは去った。軍隊もいなくなった。
 疲弊しきってはいたが、モンゴル人の姿がみえなくなってから、高麗には解放のよろこびがみなぎった。




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