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私たちが聖霊に対して尽くすべきこと:公教要理教案1-5

2019-08-10 05:09:35 | 要理(カテキズム)
『公教要理教案』天主堂出版、1924年

(1)聖霊について 5

[私たちが聖霊に対して尽くすべきこと]

(1)
 聖霊は天主様にてましますから、聖霊を礼拝せねばならぬ。私等は、聖父を知って、聖父を礼拝します。天の広さ、地の大きさ、海洋の広々さと果てしなさ、風のうなりや、雷鳴の轟きや、禽獣草木の美しさ、珍しさ、種々様々な姿、それらを眺めると、どうしても、聖父の全能を認め、聖父を礼拝せずには居られません。

 聖子もよく知って、礼拝しています。御降誕の模様を見せた馬小屋の前に参詣するとか、悲惨極まる十字架の下にひざまずくとか、ミサ聖祭にあずかり、聖体を拝領し、御受難や聖心の御絵、聖像を仰ぎ見るごとに、聖子の感ずべき愛を思い、深くありがたがって、伏し拝むのであります。

 ところが、聖霊に至っては、聖霊を思い出す機会が割合に少ない。なるほど、毎日幾度も十字架のしるしをなし、栄唱を申し上げるとき、聖霊の御名を口にしている。

「聖霊来たりたまえ」

を唱えるときなどは、特に聖霊の御助けを求めている。

 しかし、そんなに聖霊の御名をとなえ、御助けを求めながらも、自分は聖霊を礼拝するのだ、あがめ尊ぶのだと自覚している人が幾人ありましょうか。

「聖霊来たりたまえ」

なんかは、単に就業前の祈りで、何か事をはじめるまえに唱えるものだ、と思ってはいるが、聖霊の御助けを求めるための祈りだとは、夢にも思わぬのじゃありませんか?

 これではいけません

 聖霊も聖父と聖子と等しく、天主様ですから、また等しく聖霊を礼拝せねばなりません。

(2)
 礼拝する以上は、また、聖霊に対して尊敬の念を失わないようにするのが当然でしょう。聖パウロもおっしゃったように、私たちの身は神の聖殿で、聖霊がここにお住いくださる。
いわゆる、
「霊魂の甘露な珍客」

となって、始終私等のうちにおとどまりくださるのです。

 そうすれば、小罪など勝手に犯して、この珍客に不敬をなし、その御心を悲しませ申してはならぬ。まして、大罪を作って、おそれ多くもこの珍客に締め出しをくらわせ申すとか、
人を躓かせてその心からまで聖霊を追い出し奉るとかいうようなことがあってはならぬ。

「人、もし神殿を毀せば、天主様はこれを滅ぼし給うであろう」(コリント前3-17)

と言った聖パウロの御言葉を、よくよく味わってほしいものであります。

(3)
 聖霊に深くよりたのみ、艱難に出くわし、途方に暮れるという場合には、熱心に「聖霊の降臨を望む祈り」を唱えて、その御指図を求めねばならぬ。
 フランスのラモリシェ将軍が、教皇領の防御に当たっておりました頃、カトルバルブ伯にアンコナ市の守備をあずけ、別れに臨んで

「さらば伯よ。もし、途方に暮れるような場合が出てきたらば、聖霊にお祈りなさい。わたしはいつでもそこに力を求めます」

と、申し添えておきました。

 案の定、伯は非常に危険な目に陥りました。将軍の勧告を思い出して、一時間以上も繰り返し繰り返し「聖霊の降臨を望む祈り」を唱えておりますと、意外の援助を得て、急場を逃れることが出来たということであります。

(4)
 聖霊の御勧告に従わねばならぬ。聖霊が私等の心に御住い下さるのは、私等を教え導くが為である。私等の胸に、善い思いがきざしてきた、悪を避け、善を行おうという心がムラムラと起こってきた。浮世に遠ざかり、ますます天主様に近づきたい、天主様と一致して清い、曇りのない月日を送りたい気になってきた、というときには、それこそ聖霊の御勧告が響いているのです。一々忠実に従い奉らねばなりません。

 私等は、学の深い、徳の優れた、位の高い人の言うことならば喜んできいている。もし天使でも現れて、何かを命じてくださるならば、どうしても聞かずにはいられない。いわんや、聖霊は、天主様じゃありませんか。その御勧告に従わないのは、つまり天主様を侮辱し奉るわけで、とどの詰まりは見限られてしまう。勧めても戒めても戴けないようになる。

 これに反して、よく聖霊の御勧めに従っていると、ますます聖霊に愛され、豊かな聖寵を新たに恵まれて威勢よく徳の坂をを駆け上ることができるようになるのであります。





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