『中世ヨーロッパ 世界の歴史5』社会思想社、1974年
9 シチリアの晩祷
3 フリードリヒ二世
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2c/04/d14bc8cb390b9630bd7f31a56fe51893.jpg)
ハインリヒ六世の統治は、あくまでホーエンシュタウヘン家の皇帝としてのそれであった。
彼の目には、シチリア島は神聖ローマ帝国の最南端としか映じなかったのである。
父フリードリヒ赤ひげ王が、ドイツ本国内の強力な諸候伯の勢力をあるていど解体させることに成功したので、彼の短い治政中、ドイツ本国内は比較的安定していた。
だから彼は、伝統の、いわゆる「イタリア政策」をほしいままに追求することができた。
だが、シチリア人は、シチリアの政治を「イタリア政策」の一環とみるこの国王を嫌った。
安定を欠いたシチリアの政局は、一一九七年、ハインリヒの突然の死によっていっそう混乱の度をくわえた。
妃のコンスタンスは、翌年、わずか三歳半の遺児フリードリヒをシチリア王として戴冠させ、その年一月教皇の座についたばかりのイノケンティウス三世の後見のもとにおいた。
そののち半年にしてコンスタンスはみまかった。
教皇はともかくも後見の役をはたし、一三〇八年、法定の丁年に達したフリードリヒにシチリア王国を渡したが、そのシチリアは解体寸前の状態にあった。
強力な王権が欠如していたあいだに、王領は貴族たちに蚕食(さんしょく)されていた。
フリードリヒは都市の援助によってようやく王室を経営しうるというありさまであった。
そのうえ、教皇の要求する後見料一万二干八百金オンスの支払いという大きな負担が、この十四歳の少年の肩にかかっていた。
シチリア島民は、フリードリヒを苛酷なドイツ人の支配者ハインリヒの息子とみていた。
だから彼に対し、はじめから好感をもっていなかった。
フリードリヒにしても、彼は――のちに述べるように――シチリア王であるよりもまず神聖ローマ皇帝であったのだから、シチリア支配は「イタリア政策」の一環にすぎなかった。
だが、それならばなぜフリードリヒは、疲弊したシチリアなど捨ててしまわなかったのか。
生まれ育った土地、母コンスタンスの故郷パレルモへの愛着にしばられたのかもしれない。
けっきょく、フリードリヒの血の半分はシチリア人だったのである。
だが、フリードリヒの対シチリア政策は、それ以上に興味のある問題を含んでいる。
それは、神聖ローマ帝国なるものの原理、構造にかかわる問題である。
ハインリヒ六世の死後、ドイツ本国ではベルフ家が勢力を伸張した。
バイエルン、ザクセンに家領をもつベルフ家は、かつてバイエルンのハインリヒ獅子侯のとき、国王フリードリヒ赤ひげ王によって勢力を細分化されてしまったのであったが、ホーエンシュタウヘン家の国王は、イギリスやフランスの国王とはちがい、いったん解体させた諸侯伯の領土を王領として吸収するだけの手腕と手段とをもたなかった。
そのためフリードリヒの死後、ベルフ家はふたたび勢力をもたげ、ホーヘンシュタウヘン家の王位継承に干渉するにいたった。
ベルフ家はイギリス王家てあるアンジュー家とむすび、ホーエンシュタウヘン家はフランス王家の支持をうけていた。
ベルフ家の推した国王、ハインリヒ獅子候の息子オットーの母がリチャード獅子心王の妹であったことから、ベルフ家とイギリス王家とはむすびついたのだった。
けっきょく、そのオットーが国王として立ち、ローマ教皇イノケンティウス三世も、いったんは神聖ローマ帝国皇帝の冠を彼にあたえたのである。
しかし、そののち教皇はオットーを破門し、シチリアのフリードリヒの皇帝推戴をドイツ諸候にせまった。
一二一一年、フリードリヒは、教皇およびフランス国王フィリップ尊厳王の強力な支持のもとに、ドイツ国王を宣した。
オットーはキリス国王シーンと組んでフィリップ尊厳王と対決したが、一三一四年ブービーヌの戦いに敗れ、ここにドイツ本国におけるベルフ家の立場は弱体化した。
翌年、世を去ったオットーを継いで、フリードリヒが帝冠をうけたのであった。
ここですこし考えてみよう。
いったいなぜ、十三世紀のドイツ国王は、ドイツ本国内に確固たる権力の地盤をかためえなかったのだろうか。
また、いったいなぜ、ドイツ国王位継承の争いが国際的対立の場を作ったのだろうか。
いったいなぜ、ドイツ国王の王位継承問題が、イタリアやシチリアに関係してくるのだろうか。
そして、また、いったいなぜローマ教皇が、主役のひとりとして舞台に登場するのだろうか。
ドイツ国王の問題は、すなわち神聖ローマ帝国皇帝の問題だったからである。
皇帝はドイツおよびイタリアを支配する。
それどころか、フリードリヒ赤ひげ王側近の学者たちは、イギリス王、フランス王の上級君主としての皇帝という理論を考えていた。また、この理論はいっぱんに正当な根拠のあるものと考えられていたのであって、これに無関心であることを許さぬ知的風土が、当時たしかに認められたのである。
だからこそ十三世紀のフランスやイギリスの学者、法曹家たちは、むきになって王権擁護論を立てたのである。
皇帝は教皇とならんで、汎ヨーロッパ的権威と考えられていた。
しかしこの理論が少しでも現実性をもちうるとすれば、それはイギリスがまだイギリス王国ではなく、フランスがまだ王国としてのまとまりをもっていないときにかぎられる。
いいかえれば、封建分化の傾向が、いぜんヨーロッパ全土をおおいつくし、国王による中央集権の過程がそれほど進んではいない時期にかぎられる。
だが十一世紀以降、イギリスとフランスでは国王による中央集権の動きが進展し、原理的には汎ヨーロッパ的であるはずの皇帝権力の伸張も、現実にはもっぱらイタリア半島に向けられた。
これがいわゆる「イタリア政策」であった。
なぜこれが可能であったかといえば、もともと「イタリア王国」は「ロタールの国」(9.6参照)の一部であり、イタリア半島には、イギリス、フランスにみられたような集権的権力の成長がみられなかったからである。 北イタリアには諸伯領、自治都市が分立し、南イタリアにはノルマン人によるアプリア侯領があった。
中部イタリアには教皇頏があり、教皇はこの場合、いわば分立する諸勢力のリーダー的な役割をはたした。
皇帝の上級君主権をみとめない諸勢力は、教皇を保護者にたのんだ。
かくて「イタリア政策」は、イタリアにおいてふたつの汎ヨーロッパ的権威、皇帝と教皇との対立を招いたのである。
皇帝は「イタリア政策」に追われ、ドイツ国王としてなすべきことをおろそかにした。
フリードリヒ二世(赤ひげ王)は、ミニステリアレスと呼ばれる国王直属の新しい騎士階級の者を多く役人として登用した。
しかしこれはイギリスの州長官(シェリフ)、フランスの法官(レジスト)などとは、およそ異質のものであった。
フリードリヒはミニステリアレスを統御する中央機構の整備に失敗したのである。
彼らは、官僚としての性格をまたたくまに喪失して、封建貴族層に合流してしまった。
パリ、ロンドンが急速に首都として発展していたとき、ドイツは首都も中央行政府ももってはいなかったのである。
そういうわけで、すでにフランス、イギリスが個別国家、中央集権国家のかたちを明確にとるにいたった十二世紀から十三世紀にかけてのころ、神聖ローマ帝国皇帝は、ドイツ本国の領域的統制権を確保しえず、皇帝理念におどらされて、イタリアの統制をローマ教皇と争っていた。
皇帝はドイツ本国か、「イタリア政策」かのどちらかを選ばねばならなかった。
フリードリヒ二世は、あえて後者をえらんだ。
その祖父や父の場合にくらべるとはなはだちがったやりかたで、伝統の理念に生きようとした。
彼はドイツ本国の現状をそのまま認めた。
ドイツの聖俗諸侯にあてだ勅書のなかで、彼は諸侯を君主と呼び、領邦内での最終審的裁判権をほとんど全面的に認めている。控訴法廷としての国王裁判所の制度化を進めたフランスの場合とくらべ、なんというちがいだろう。
後年のドイツ領邦体制は事実上成立していたのである。
フリードリヒは、諸侯の立場を全面的に認めることによって、ドイツ本国内での政争にまきこまれないようにつとめた。
そして、全力をあげて個別国家シチリアの再建に向けたのである。
そして、シチリアを足場とする「イタリア政策」の貫徹を意図したのである。
これが、なぜフリードリヒがシチリアをみすてなかったかの理由である。
だから、やはり彼のシチリア経営は、ロジエ二世ら、ノルマン人の王たちの場合とはちかっていた。
なんといっても彼はドイツ人の王であり、シチリア島民のいだいた異和感には正当の根拠があった。
だが、ともかくも彼は、シチリアに、ふたたび統制と繁栄をもたらした。
彼の発布した、中世では最初の体系的な国法典「皇帝の書」二一七条は正義の原則につらぬかれていた。
彼の議会には、貴族とともに都市の代表も参加していた。
国内の諸関税はすべて廃棄され、国境関税だけが徴収された。
産業と商業は大幅に国家統制をうけていた。
たしかにビザンティンふう専制君主国家の性格が強いが、ともかくもシチリア王国は、一個の個別国家としてフリードリヒのもとに再生したのである。
フリードリヒは、ここではシチリア国王であり、皇帝ではなかった。
教皇権も、シチリア王国への干渉には、はなはだ困難を覚えたのである。
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9 シチリアの晩祷
3 フリードリヒ二世
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ハインリヒ六世の統治は、あくまでホーエンシュタウヘン家の皇帝としてのそれであった。
彼の目には、シチリア島は神聖ローマ帝国の最南端としか映じなかったのである。
父フリードリヒ赤ひげ王が、ドイツ本国内の強力な諸候伯の勢力をあるていど解体させることに成功したので、彼の短い治政中、ドイツ本国内は比較的安定していた。
だから彼は、伝統の、いわゆる「イタリア政策」をほしいままに追求することができた。
だが、シチリア人は、シチリアの政治を「イタリア政策」の一環とみるこの国王を嫌った。
安定を欠いたシチリアの政局は、一一九七年、ハインリヒの突然の死によっていっそう混乱の度をくわえた。
妃のコンスタンスは、翌年、わずか三歳半の遺児フリードリヒをシチリア王として戴冠させ、その年一月教皇の座についたばかりのイノケンティウス三世の後見のもとにおいた。
そののち半年にしてコンスタンスはみまかった。
教皇はともかくも後見の役をはたし、一三〇八年、法定の丁年に達したフリードリヒにシチリア王国を渡したが、そのシチリアは解体寸前の状態にあった。
強力な王権が欠如していたあいだに、王領は貴族たちに蚕食(さんしょく)されていた。
フリードリヒは都市の援助によってようやく王室を経営しうるというありさまであった。
そのうえ、教皇の要求する後見料一万二干八百金オンスの支払いという大きな負担が、この十四歳の少年の肩にかかっていた。
シチリア島民は、フリードリヒを苛酷なドイツ人の支配者ハインリヒの息子とみていた。
だから彼に対し、はじめから好感をもっていなかった。
フリードリヒにしても、彼は――のちに述べるように――シチリア王であるよりもまず神聖ローマ皇帝であったのだから、シチリア支配は「イタリア政策」の一環にすぎなかった。
だが、それならばなぜフリードリヒは、疲弊したシチリアなど捨ててしまわなかったのか。
生まれ育った土地、母コンスタンスの故郷パレルモへの愛着にしばられたのかもしれない。
けっきょく、フリードリヒの血の半分はシチリア人だったのである。
だが、フリードリヒの対シチリア政策は、それ以上に興味のある問題を含んでいる。
それは、神聖ローマ帝国なるものの原理、構造にかかわる問題である。
ハインリヒ六世の死後、ドイツ本国ではベルフ家が勢力を伸張した。
バイエルン、ザクセンに家領をもつベルフ家は、かつてバイエルンのハインリヒ獅子侯のとき、国王フリードリヒ赤ひげ王によって勢力を細分化されてしまったのであったが、ホーエンシュタウヘン家の国王は、イギリスやフランスの国王とはちがい、いったん解体させた諸侯伯の領土を王領として吸収するだけの手腕と手段とをもたなかった。
そのためフリードリヒの死後、ベルフ家はふたたび勢力をもたげ、ホーヘンシュタウヘン家の王位継承に干渉するにいたった。
ベルフ家はイギリス王家てあるアンジュー家とむすび、ホーエンシュタウヘン家はフランス王家の支持をうけていた。
ベルフ家の推した国王、ハインリヒ獅子候の息子オットーの母がリチャード獅子心王の妹であったことから、ベルフ家とイギリス王家とはむすびついたのだった。
けっきょく、そのオットーが国王として立ち、ローマ教皇イノケンティウス三世も、いったんは神聖ローマ帝国皇帝の冠を彼にあたえたのである。
しかし、そののち教皇はオットーを破門し、シチリアのフリードリヒの皇帝推戴をドイツ諸候にせまった。
一二一一年、フリードリヒは、教皇およびフランス国王フィリップ尊厳王の強力な支持のもとに、ドイツ国王を宣した。
オットーはキリス国王シーンと組んでフィリップ尊厳王と対決したが、一三一四年ブービーヌの戦いに敗れ、ここにドイツ本国におけるベルフ家の立場は弱体化した。
翌年、世を去ったオットーを継いで、フリードリヒが帝冠をうけたのであった。
ここですこし考えてみよう。
いったいなぜ、十三世紀のドイツ国王は、ドイツ本国内に確固たる権力の地盤をかためえなかったのだろうか。
また、いったいなぜ、ドイツ国王位継承の争いが国際的対立の場を作ったのだろうか。
いったいなぜ、ドイツ国王の王位継承問題が、イタリアやシチリアに関係してくるのだろうか。
そして、また、いったいなぜローマ教皇が、主役のひとりとして舞台に登場するのだろうか。
ドイツ国王の問題は、すなわち神聖ローマ帝国皇帝の問題だったからである。
皇帝はドイツおよびイタリアを支配する。
それどころか、フリードリヒ赤ひげ王側近の学者たちは、イギリス王、フランス王の上級君主としての皇帝という理論を考えていた。また、この理論はいっぱんに正当な根拠のあるものと考えられていたのであって、これに無関心であることを許さぬ知的風土が、当時たしかに認められたのである。
だからこそ十三世紀のフランスやイギリスの学者、法曹家たちは、むきになって王権擁護論を立てたのである。
皇帝は教皇とならんで、汎ヨーロッパ的権威と考えられていた。
しかしこの理論が少しでも現実性をもちうるとすれば、それはイギリスがまだイギリス王国ではなく、フランスがまだ王国としてのまとまりをもっていないときにかぎられる。
いいかえれば、封建分化の傾向が、いぜんヨーロッパ全土をおおいつくし、国王による中央集権の過程がそれほど進んではいない時期にかぎられる。
だが十一世紀以降、イギリスとフランスでは国王による中央集権の動きが進展し、原理的には汎ヨーロッパ的であるはずの皇帝権力の伸張も、現実にはもっぱらイタリア半島に向けられた。
これがいわゆる「イタリア政策」であった。
なぜこれが可能であったかといえば、もともと「イタリア王国」は「ロタールの国」(9.6参照)の一部であり、イタリア半島には、イギリス、フランスにみられたような集権的権力の成長がみられなかったからである。 北イタリアには諸伯領、自治都市が分立し、南イタリアにはノルマン人によるアプリア侯領があった。
中部イタリアには教皇頏があり、教皇はこの場合、いわば分立する諸勢力のリーダー的な役割をはたした。
皇帝の上級君主権をみとめない諸勢力は、教皇を保護者にたのんだ。
かくて「イタリア政策」は、イタリアにおいてふたつの汎ヨーロッパ的権威、皇帝と教皇との対立を招いたのである。
皇帝は「イタリア政策」に追われ、ドイツ国王としてなすべきことをおろそかにした。
フリードリヒ二世(赤ひげ王)は、ミニステリアレスと呼ばれる国王直属の新しい騎士階級の者を多く役人として登用した。
しかしこれはイギリスの州長官(シェリフ)、フランスの法官(レジスト)などとは、およそ異質のものであった。
フリードリヒはミニステリアレスを統御する中央機構の整備に失敗したのである。
彼らは、官僚としての性格をまたたくまに喪失して、封建貴族層に合流してしまった。
パリ、ロンドンが急速に首都として発展していたとき、ドイツは首都も中央行政府ももってはいなかったのである。
そういうわけで、すでにフランス、イギリスが個別国家、中央集権国家のかたちを明確にとるにいたった十二世紀から十三世紀にかけてのころ、神聖ローマ帝国皇帝は、ドイツ本国の領域的統制権を確保しえず、皇帝理念におどらされて、イタリアの統制をローマ教皇と争っていた。
皇帝はドイツ本国か、「イタリア政策」かのどちらかを選ばねばならなかった。
フリードリヒ二世は、あえて後者をえらんだ。
その祖父や父の場合にくらべるとはなはだちがったやりかたで、伝統の理念に生きようとした。
彼はドイツ本国の現状をそのまま認めた。
ドイツの聖俗諸侯にあてだ勅書のなかで、彼は諸侯を君主と呼び、領邦内での最終審的裁判権をほとんど全面的に認めている。控訴法廷としての国王裁判所の制度化を進めたフランスの場合とくらべ、なんというちがいだろう。
後年のドイツ領邦体制は事実上成立していたのである。
フリードリヒは、諸侯の立場を全面的に認めることによって、ドイツ本国内での政争にまきこまれないようにつとめた。
そして、全力をあげて個別国家シチリアの再建に向けたのである。
そして、シチリアを足場とする「イタリア政策」の貫徹を意図したのである。
これが、なぜフリードリヒがシチリアをみすてなかったかの理由である。
だから、やはり彼のシチリア経営は、ロジエ二世ら、ノルマン人の王たちの場合とはちかっていた。
なんといっても彼はドイツ人の王であり、シチリア島民のいだいた異和感には正当の根拠があった。
だが、ともかくも彼は、シチリアに、ふたたび統制と繁栄をもたらした。
彼の発布した、中世では最初の体系的な国法典「皇帝の書」二一七条は正義の原則につらぬかれていた。
彼の議会には、貴族とともに都市の代表も参加していた。
国内の諸関税はすべて廃棄され、国境関税だけが徴収された。
産業と商業は大幅に国家統制をうけていた。
たしかにビザンティンふう専制君主国家の性格が強いが、ともかくもシチリア王国は、一個の個別国家としてフリードリヒのもとに再生したのである。
フリードリヒは、ここではシチリア国王であり、皇帝ではなかった。
教皇権も、シチリア王国への干渉には、はなはだ困難を覚えたのである。
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