『アジア専制帝国 世界の歴史8』社会思想社、1974年
1 大明帝国の成立
2 紅巾の覇者
一三六八年、南風のにない手となった大明の太祖洪武帝が、北風のにない手であった大元の順帝を漠北(ばくほく=ゴビ砂漠の北)にしりぞけることにより、南北二帝の交代劇は、ひとまず幕をおろした。
洪武帝、すなわち朱元璋は、逆境の苦しみを味わいつくしながら、自力で皇帝への道をあゆんだ。
順帝は、帝室に生まれたがゆえの遠流(えんる)の身から、再び宮廷にむかえられ、帝位につけられた。偶然のことながら、両帝ともに、おさないときに不遇であったことは興味ふかい。
順帝は元朝十一代目の皇帝である。
十三歳で即位し、漠北にしりぞくまで、在位は三十六年におよんだ。
元朝九十余年にわたる統治の三分の一以上をしめる。
したがって、のこる六十年ばかりのあいだに、十人の皇帝が交代したことになる。元朝における皇帝の廃位が、いかにはげしかったかを、うかがうことができよう。順帝は、第八代皇帝たる明宗の長子として生まれた。
中国の相続法にしたがえば、皇太子となり、やがて九代皇帝となる身である。
しかしモンゴル人の社会に、そのような相続法はない。
くわえて明宗はカラコルムで即位し、大都にむかう途上で没した。
九代皇帝には弟の文宗が立ち、十代皇帝には順帝の弟の寧宗が七歳で擁立された。
寧宗は在位一年たらずで世を去り、ようやく順帝の即位となった。
元朝の帝位は、権臣の左右するところであった。明宗の死後、順帝が帝位につかなかった一因は、明宗の皇后にあったという。
帝位にかわるものは、島流しであった。
まず高麗の孤島にうつされた。
しかし、それも安住の地ではなかった。
高麗に順帝を擁立しようとする気配ありとの流言によって、居をうつされた。
こともあろうに、つぎの配所は南のはて、広西(カンシー)の一角であった。
そこでは一寺に住み、つれづれなるままに、読み書きをならった。
逆境のなかにおとずれた安住は短かった。
寧宗が死ぬと、皮肉にも、文宗の皇后が順帝を帝位におした。
十三歳の皇帝は、こうして出現したのである。
帰還したものの、大都は権臣の抗争する場であった。
無力の年少皇帝は、ロボッ卜にすぎない。
はじめは「至元」の年号がものがたるように、帝の危機をすくって権をにぎったモンゴル第一主義のバヤンが政治を左右した。
ついで漢化主義のトクトが、バヤンをたおして権力をふるった。
年号は至正と改められ、中国文化の振興策がすすめられた。
もとよりモンゴル主義者が、黙視するはずはない。
十四年には、反対派がトクトをたおした。
権力あらそいに嫌気がさした順帝のおもむく道はただ一つ、ラマ教への狂信であった。
中国の皇帝が、しばしば道教を狂信したように、元朝宮廷のラマ教崇拝は、まさに皇帝が逃避する場であった。
権臣は政権を左右し、皇帝はラマ教におもむく。
もはや大元帝国は、有名無実の存在である。
分裂し、衰退する北風にかわったものは、民力を結集した南風であり、そのにない手が朱元璋であった。
朱元璋は、社会の底辺をなす貧農の子として生をうけた。
文字どおり、どん底の貧農である。
くわえて流行病(はやりやまい)は、家族をちりぢりにさせてしまった。
朱元璋が十七歳のときである。
かれが身をよせたものは、寺であった。順帝もまた配流(はいる)の身を寺によせている。
そこで順帝がえたものは、安住と学問であったが、朱元璋におとずれたものは、乞食も同然の托鉢生活であった。
真の逆境と不遇とは、順帝になく、朱元璋にあったといえよう。
托鉢僧の朱元璋が、やがて身を投じたのは、白蓮(びゃくれん)教をもって代表される紅巾(こうきん)の軍であった。
順帝は帝位のはかなさを知ってラマ教にはしり、朱元璋は、貧苦の生活から、白蓮教に身を投じた。
ともにおもむいた道は宗教であるが、一方は絶望から快楽への逃避であり、一方はひと筋の光明をもとめての宗教軍への参加であった。
それが両者の運命をかえた。
白蓮教徒の結集については、いろいろにいわれる。
ともあれ、その支柱は弥勒下生(みろくげじょう)の信仰にあった。
乱世をすくうため弥勒菩薩(みろくぼさつ)が、この世にあらわれる。
その教説は、どん底にあえぐ貧民の心をとらえる。
元末、順帝の施行した大規模な黄河治水の事業は、そこにかりだされた数万の民を苦しめた。
弥勒下生をもって貧民を結集する好機である。
機に乗じた活動は、急速な反元勢力の成長をもたらした。
彼らは紅巾をめじるしとしたので糺巾軍という。
また、その宗教に由来して香軍ともよばれた。
各地の反元勢力は、紅巾軍のもとに集まりはじめた。
朱元璋が身を投じたのは、当時の一将領、郭子與の軍であった。
郭軍に投じた朱元璋は、力量を発揮して頭角をあらわし、郭の信任をえて、その養女を妻とするにいたった。
のちの馬皇后である。
ときに紅巾軍の蜂起に対する元軍の反攻がはげしさをくわえ、紅巾軍は各所で敗れはじめた。
郭軍も苦境におかれたが、さいわいにして危機を脱した。
軍を再建するために朱元璋は、精兵を結集し、かれをささえる中核とした。
のち、明朝の創業第一の功臣となる名将の徐達らは、このとき朱元璋の部下となったものである。
精兵を中核とした朱元璋の活躍はめざましく、その名声を聞いて、郭軍に投ずる将領がふえた。
郭子興の片腕として最大の実力者となった朱元璋は、郭の死後その全軍をにぎり、やがて食糧の宝庫たる江南をめざし、長江を南にわたった。
これが朱元璋の運命を決定づけた。
各地に元軍を撃破しつつ、南京を攻略して、応天府とあらためる。
朱元璋が白蓮教の信者であったかどうかは、うたがわしい。
むしろ、教徒を中心に結集された紅巾軍の活動のなかに、本領を発揮する場があったといえよう。
軍事的統率者としての実力こそ、多くの人士を配下におさめ、元朝にかわる大明皇帝への道をあゆませたのである。
皇帝への道を指向したとき、紅巾軍も元軍も、ともに打破すべき対象であった。