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『文芸復興の時代 世界の歴史7』社会思想社、1974年
8 ヒューマニストの運命
1 日本にいたエラスムス
栃木県の西南、佐野市上羽田(旧足利郡吾妻村)にある竜江院(りゅうこういん、禅宗)の山門をくぐると、左手に小さな観音堂がある。
この観音堂に江戸時代の初期から大正時代の末期まで、観音さまとともに「貨狄(かてき)さま」と呼ばれる木像が安置されていたが、それは高さ一メートルばかり、大黒帽に似た頭巾をつけ、右手に開いた巻き物を持った立像である。
この「かてき」については、カテキスム(カトリック教の教理を問答体で書いたもの)、またカテキスタ(信者と教理問答を行う役僧)から出たとか、あるいは中国で大むかしにはじめて舟を作ったと伝えられる人のことだとか、いろいろと解釈されている。
この木像の存在が日本でも注目を集めはじめたころ、その写真が、大正十三年のクリスマスからバティカン市で開かれた世界宗教博覧会に、「在日本キリスト教聖人像」として出品され、西洋の学者も関心を抱くにいたった。
そして東西の学者たちの研究の結果、大正十五年に、これはオランダがうんだ大学者エラスムスの木像であることがわかった。
そういえば、木像の顔つきは、オランダの画家ハンス・ホルバインなどが描いたエラスムスの肖像によく似ており、また木像が持っている巻き物に、かすかに残るローマ宇は「エラスムス・ロッテルダム」と判読され、一五九八年という銘(めい)も見られる。
そしてそれはリーフデ号というオランダ船の船尾像として、日本に迷いこんだものである。
リーフデとは英語のチャリティー、すなわち慈愛という意味である。
オランダはその商品の販路拡大のために東洋探検を試み、一五九八年六月末、このリーフデ号をふくめて五隻の船団が西に向かって出発した。
しかし遠征隊は大西洋や太平洋でさんざんな目にあい、リーフデ号だけがやっとのことで日本に漂着した。
この船が豊後の海岸、いまの大分県臼杵(うすき)市佐志生(さしゆう)に流れ着いたのは一六〇〇年四月、日本暦によれば慶長五年三月のことで、ちょうど関が原の戦い(九月)があった年である。
リーフデ号の乗組員百十名の多くは飢えと病気で倒れ、日本に着いたときに生き残っていた者は約二十五名、しかも歩行にたえうる者は僅かに六、七人にすぎなかったという。
彼らは臼杵城主太田飛騨守一吉によって保護されたが、病気の船長の代理として、航海長でイギリス人のウィリアム・アダムズらが、大坂におもむいて徳川家康に引見され、いろいろと取り調べを受けた。
一方リーフデ号は家康の命令によって、まず堺へ、さらに浦賀へ回航された。
この船には商品や大砲のほかに、小銃、火薬などが積んであり、徳川氏がこれらを利用したことは想像できるところであろう。
なおこのウィリアム・アダムズはその後、家康の寵(ちょう)をえ、江戸日本橋に屋敷を与えられ、三浦按針(あんしん)と称し、外交顧問として対外交渉につくしたことは有名であろう。
三浦は領地の相模三浦郡にちなみ、按針は航海士の意味である。
また彼は本国に妻子があったが、日本人とも結婚し、一男一女をもうけ一六二〇年に世を去った。
さてこのリーフデ号の船尾像が、どうして無関係な栃木県の寺の所有になったのであろうか?
これについては異説もあり、詳細は不明であるが、通説によればつぎのとおりである。
リーフデ号が堺に回航されるまえ、臼杵で船体の修理をしたとき、取りのぞかれたエラスムス像は記念として城主太田一吉に贈られた。
ところが関が原の戦いで、石田三成に味方した一吉は、隣接の徳川方の城主中川氏に攻められ、像を城に残したまま敗走した。
そこで新たに稲葉氏が臼杵城主となつたが、その後一六三七年島原の乱が起こったとき、稲葉氏はこの情報を当時、府内(大分市)にいた幕府目付の牧野伝蔵成純を通じて、幕府に伝達した。
このため稲葉氏は幕府から賞されたが、牧野成純が江戸に帰るにあたって、稲葉氏は彼にエラスムス像を贈って感謝の気持ちを示した。
この牧野家の菩提(ぼだい)寺が竜江院で、成純がここに像を納めたというわけである――。
なおこの像は昭和五年国宝に指定され、同時に東京国立博物館に寄託されて現在に至っているが、昭和二十五年重要文化財に指定替えとなった(以上は主として『臼杵史談』第五十八号三浦按針特集号によった)。
こうしてわが国と奇妙な因縁を持ったエラスムスは、これから彼とともに登場するであろうトマス・モアなどと同じく、ルネサンス時代における西欧ヒューマニストを代表する古典学者、人文主義者でもあった。
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