聖ニコラオ司教 St. Nicolaus E. 記念日 12月 6日
キリスト教国の子供達に最も人気の或る聖人といえば、誰しも気がつく通り聖ニコラオ司教であろう。世に言うサンタ・クロースのお爺さんが即ちそれで、日本やプロテスタントの国などではクリスマスに子供達へいろいろの贈り物を持って来てくれると言われているが、ドイツその他のカトリック国では、その祝日の12月6日に、親親戚などが聖ニコラオに扮して良い子には褒美を与え悪い子には訓戒を与える習慣がある。しかし実際は聖ニコラオはただ子供達の保護者であるばかりでなく、また処女、囚人、船員、商人、学生たちの保護の聖人として知られ。信仰を擁護した有名な司教である。
この聖人は270年小アジアのパターレに或る富豪の子と生まれた。そして身分相応に学問はもちろんのこと宗教方面に於いても立派な教育を受けたが、両親は早く世を去って彼に莫大な財産を遺した。ニコラオはそれを善業に用いようと決心し、且つその決心を実行したが、中でも今日まで伝えられている特に有名な善業は次の話である。
3人の娘の父が貧乏の悲しさにその中の一人も嫁にやることが出来なかった。それでいろいろ思い悩んでいる中に魔が差して、娘たちを皆魔窟へ売り飛ばそうという気になった。ニコラオはそれを聞いて大いに驚き、是非その可哀想な娘たちを助けねばならぬと考えたが、生来謙遜な彼は人に知られるのを厭い、一人の娘を嫁がせるのに十分な金を、或る晩夜陰に乗じて窃かにその家へ投げ込んでやった。それから次の晩も、またその次の晩もそうした。ところが重ね重ねの隠徳を蒙って、その主を突きとめたいと思った娘の父は、三晩目には寝ずの番をして、とうとうそれがニコラオであることを知った。ニコラオはそれに就き相手に堅く口止めをした。しかしいつかその善業はあまねく世間に知れ渡り、彼の評判は一時に天下に高くなったのである。
彼が立派な準備をして司祭に叙階されてから暫く後のことであった。ミラの大司教が亡くなり、その後任に誰を選ぶべきか思い惑うた司教達が、天主の御啓示を願って一心に祈っていると、夜に入って天から声あり、「明朝真っ先に教会を訪れるニコラオという者こそ天主の御眼識に適った人物である」と告げた。ニコラオはその時ちょうどミラに居合わせ、翌朝何の気もなく教会へ行ったが、図らずも最初の参詣者となり、問われて名乗った所たちまち司教に挙げられることとなった。彼は始め懸命に事態しようとした。けれども遂にそれが天主の聖旨と知って快く承諾するに至った。やがてまたヂオクレチアノ皇帝の迫害が勃発した。皇帝は教会をことごとく焼き払い、司教司祭はもちろん平信者までも殺せと厳命を下した。但し迫害の厳しさは何処も同じという訳ではなかった。殊に遠隔の地方では役人の考えにより随分ゆるやかな所もあった。
とはいえニコラオ司教は捕縛拘引を免れなかった。そして飽くまでも信仰を棄てぬと言い放った為に、激しく打ち叩かれた後牢屋に投げ込まれた。彼はそのままコンスタンチノ大帝がキリスト教徒に信仰の自由を許した時まで打ち捨てて置かれた。そしていよいよ釈放されると、あらん限りの力を尽くして教会の復興、信者の教導、異教徒の改宗に努めた。なお彼は当時盛んであったアリオ派の異端に対し、護教上にも功労があり、二ケア公会議にも列席した。
ニコラオは信仰にも熱心であったが、博愛の情にも甚だ厚かった。彼の司教区は貧しく。食糧なども一部は遠隔の地からその供給を仰がねばならぬ有り様であった。それで教区の貧民たちが窮乏に苦しむ時など、天主は忠実なる僕ニコラオの手より、驚くべき奇蹟を行わせて彼等を救い給うこともしばしばあった。
或る時のことである、穀物を積んだ幾艘かの舟が、暴風に吹き流されてミラの海岸に漂着した。時あたかもミラは飢饉に悩んでいたから、司教はその舟の各々から百マスづつ小麦を貰うよう懇願した。船長たちは彼の望みの切なるに動かされて之を承諾したが、出帆の後改めて見れば、こは如何に、与えて減った筈の穀物が、元通り少しも分糧に変わりがなかったという。
ニコラオはまた、あられもない濡れ衣を着せられて死刑を言い渡された3人の生年の命を助けてやったことがある。同じく無実の罪を負わされて世人の攻撃非難の中に殺される事になっていた数人の高官を、天主の御助けにより奇跡的に救ってやったこともある。わけても船乗りたちの危難に奇蹟を行って、彼等を助けたことがしばしばあった。彼が今もカトリックを奉ずる海員水夫たちの間に一方ならず尊敬されているのは、この理由に基づくのである。
ニコラオの帰天は341年のことであった。生前幾多の不幸な者を助けたこの聖司教は、死後も世人に敬慕されること甚だしく、天主もまたその代祷に応じて数多の奇蹟を行い給うた。1087年彼の遺骸はイタリアのバリ市に移されたが、その墓畔には奇蹟が絶えず、参詣してその助力を願う者引きも切らない。
教訓
聖書は人知れず善業をなすべきことに就いて「汝が施しをなすに当たりて、右のなす所、左の手これを知るべからず」と諭している。故に我等は数々の陰徳を積んだ聖司教ニコラオに倣おう。そうすれば隠れたるに見給う天主は、公審判の時あらわに之を賞し給い、一層大なる天国の報酬を賜わるに相違ない、自家広告の為にする善業などは後の世にさほどの功勲とは認められぬであろう。
キリスト教国の子供達に最も人気の或る聖人といえば、誰しも気がつく通り聖ニコラオ司教であろう。世に言うサンタ・クロースのお爺さんが即ちそれで、日本やプロテスタントの国などではクリスマスに子供達へいろいろの贈り物を持って来てくれると言われているが、ドイツその他のカトリック国では、その祝日の12月6日に、親親戚などが聖ニコラオに扮して良い子には褒美を与え悪い子には訓戒を与える習慣がある。しかし実際は聖ニコラオはただ子供達の保護者であるばかりでなく、また処女、囚人、船員、商人、学生たちの保護の聖人として知られ。信仰を擁護した有名な司教である。
この聖人は270年小アジアのパターレに或る富豪の子と生まれた。そして身分相応に学問はもちろんのこと宗教方面に於いても立派な教育を受けたが、両親は早く世を去って彼に莫大な財産を遺した。ニコラオはそれを善業に用いようと決心し、且つその決心を実行したが、中でも今日まで伝えられている特に有名な善業は次の話である。
3人の娘の父が貧乏の悲しさにその中の一人も嫁にやることが出来なかった。それでいろいろ思い悩んでいる中に魔が差して、娘たちを皆魔窟へ売り飛ばそうという気になった。ニコラオはそれを聞いて大いに驚き、是非その可哀想な娘たちを助けねばならぬと考えたが、生来謙遜な彼は人に知られるのを厭い、一人の娘を嫁がせるのに十分な金を、或る晩夜陰に乗じて窃かにその家へ投げ込んでやった。それから次の晩も、またその次の晩もそうした。ところが重ね重ねの隠徳を蒙って、その主を突きとめたいと思った娘の父は、三晩目には寝ずの番をして、とうとうそれがニコラオであることを知った。ニコラオはそれに就き相手に堅く口止めをした。しかしいつかその善業はあまねく世間に知れ渡り、彼の評判は一時に天下に高くなったのである。
彼が立派な準備をして司祭に叙階されてから暫く後のことであった。ミラの大司教が亡くなり、その後任に誰を選ぶべきか思い惑うた司教達が、天主の御啓示を願って一心に祈っていると、夜に入って天から声あり、「明朝真っ先に教会を訪れるニコラオという者こそ天主の御眼識に適った人物である」と告げた。ニコラオはその時ちょうどミラに居合わせ、翌朝何の気もなく教会へ行ったが、図らずも最初の参詣者となり、問われて名乗った所たちまち司教に挙げられることとなった。彼は始め懸命に事態しようとした。けれども遂にそれが天主の聖旨と知って快く承諾するに至った。やがてまたヂオクレチアノ皇帝の迫害が勃発した。皇帝は教会をことごとく焼き払い、司教司祭はもちろん平信者までも殺せと厳命を下した。但し迫害の厳しさは何処も同じという訳ではなかった。殊に遠隔の地方では役人の考えにより随分ゆるやかな所もあった。
とはいえニコラオ司教は捕縛拘引を免れなかった。そして飽くまでも信仰を棄てぬと言い放った為に、激しく打ち叩かれた後牢屋に投げ込まれた。彼はそのままコンスタンチノ大帝がキリスト教徒に信仰の自由を許した時まで打ち捨てて置かれた。そしていよいよ釈放されると、あらん限りの力を尽くして教会の復興、信者の教導、異教徒の改宗に努めた。なお彼は当時盛んであったアリオ派の異端に対し、護教上にも功労があり、二ケア公会議にも列席した。
ニコラオは信仰にも熱心であったが、博愛の情にも甚だ厚かった。彼の司教区は貧しく。食糧なども一部は遠隔の地からその供給を仰がねばならぬ有り様であった。それで教区の貧民たちが窮乏に苦しむ時など、天主は忠実なる僕ニコラオの手より、驚くべき奇蹟を行わせて彼等を救い給うこともしばしばあった。
或る時のことである、穀物を積んだ幾艘かの舟が、暴風に吹き流されてミラの海岸に漂着した。時あたかもミラは飢饉に悩んでいたから、司教はその舟の各々から百マスづつ小麦を貰うよう懇願した。船長たちは彼の望みの切なるに動かされて之を承諾したが、出帆の後改めて見れば、こは如何に、与えて減った筈の穀物が、元通り少しも分糧に変わりがなかったという。
ニコラオはまた、あられもない濡れ衣を着せられて死刑を言い渡された3人の生年の命を助けてやったことがある。同じく無実の罪を負わされて世人の攻撃非難の中に殺される事になっていた数人の高官を、天主の御助けにより奇跡的に救ってやったこともある。わけても船乗りたちの危難に奇蹟を行って、彼等を助けたことがしばしばあった。彼が今もカトリックを奉ずる海員水夫たちの間に一方ならず尊敬されているのは、この理由に基づくのである。
ニコラオの帰天は341年のことであった。生前幾多の不幸な者を助けたこの聖司教は、死後も世人に敬慕されること甚だしく、天主もまたその代祷に応じて数多の奇蹟を行い給うた。1087年彼の遺骸はイタリアのバリ市に移されたが、その墓畔には奇蹟が絶えず、参詣してその助力を願う者引きも切らない。
教訓
聖書は人知れず善業をなすべきことに就いて「汝が施しをなすに当たりて、右のなす所、左の手これを知るべからず」と諭している。故に我等は数々の陰徳を積んだ聖司教ニコラオに倣おう。そうすれば隠れたるに見給う天主は、公審判の時あらわに之を賞し給い、一層大なる天国の報酬を賜わるに相違ない、自家広告の為にする善業などは後の世にさほどの功勲とは認められぬであろう。