『文芸復興の時代 世界の歴史7』社会思想社、1974年
13 ロシアの歴史をさかのぼって
4 タタールのくびき
プラウダといえば、ソ連の新聞の名で、「真実」「正義」などを意味するが、古いロシア語では「法」の集成、すなわち「法典」をさした。
現存するロシアで最古の法典が、「ルースカヤ・プラウダ」(ルス法典)であるが、そのなかでいちばん古い部分が、ヤロスラフ大公のとき(一〇一六)編纂されたものである。
これには古いスラブの慣習法と新しいキリスト教倫理との奇妙な混交が見られ、キエフールスの社会構成を知るうえでほとんど唯一の貴重な史料となっている。
そこで、この「ヤロスラフ・プラウダ」によれば、そのころのルスの住民は公(クニヤージ)の「家臣団(ムーシ)」と「一般人(リュージ)」にわけられ、しかも前者は後者の「二倍のねうち」があるとされた。
たとえば、家臣を殺すと一般人の二倍、すなわち金貨八十枚の罰金がとられる。
また、殺されたのが「婦人」ならば一般人の半額、つまり金貨二十枚でよい。
したがって、人を殺しても罰金を払えばよいわけで、古代スラブの「血の復讐」は、法令のうえではあとをたっている。
ところで「殺人」よりももっと重い罪は「放火」と「馬泥棒」で、これをやると全財産を没収されたうえに、自由を剥奪方れて奴隷におとされた。
つまり、「人間」よりも「物」のほうが重く見られていた。
「一般人」は、「ポサードの人びと」とよばれる市民(商人、職人)と農民からなり、これらはいずれも「自由人」であるが、このほかに「不自由人」、つまり、奴隷がいた。
男の奴隷は「ホロープ」、女人奴隷は「ラーバ」とよばれた。
女奴隷が主人の種を宿すと、母子ともに「自由人」に昇格した。
ロシア語の「働く」(ラボータチ)という言葉もこの「ラーバ」(女奴隷)を語源としており、「その主人にたいして奴隷の状態におかれる」がもとの意味であった。
「仕事」(ラボータ)、「労働者」(ラボーチイ)などの語も同じ系列にはいる。
ところで、キエフ時代のロシアに奴隷がいたことは確実であるが、その数は不明。
東ローマの記録には、「スラブ人は捕虜を奴隷としない。
身代金を払って故国へ帰らせるか、そこにとどまって自由人となるかのいずれかをえらばせる」――というのがある。
しかし、別の説によると、彼らは「遠征」で獲得した捕虜を外国へ「輸出」していたともいう。
つまり、当時の黒海・カスピ海貿易で奴隷は、ロシア産の毛皮とならぶ重要な「商品」であった。
いずれにせよ、ロシアの奴隷の数は古代ギリシア・ローマのように多くはなく、したがって、キエフ・ルスを「奴隷制」国家とよぶのはあたらない。
「プラウダ」によると、奴隷は「人間」としてではなく、「家畜」と同列にあつかわれ、これを殺しても罰金はとられず、ただその所有者に損害賠償をすればよいことになっていた。
では、悪名高いロシアの「農奴制」はいつごろから生まれるのかとなると、学者のあいだでもいろいろと異論がある。
ただここでいえることは、農民のなかにはじめ存在した「自由人」と「奴隷」の差がしだいにちぢまり(とくにのちのモスクワ時代に)、やがて両者が融合することころに「農奴」が生まれると見てよい。
ロシアの平原にタタール(モンゴル)が姿をあらわすのは、成吉思汗(ジンギスカン)の死ぬ三年前(一二二四)のこと(日本では「承久の乱」後まもなく)であった。
「やつらが我々の国を奪ってしまった。明日はあなたの番です」――という警報が、西辺の遊牧民ポロブエツ人からはいったので、ルスの諸公はキエフ大公ムスチスラフのもとに戦備をととのえ、東部国境のカルカ川でタタール軍を迎え撃ったが、死者一万を出して惨敗した。
しかし幸いにもこのときには、勝ったタタール軍がすぐ軍をかえしていずこかへ姿を消した。
「天災は忘れたころにやってくる」――という諺(ことわざ)のように、それから十三年間が夢のように過ぎたが、ある日、突如として抜都(バツ)のひきいるタタール軍五十万が、ロシアを席捲(せっけん)した(一二三七~四〇)。
「鎌で草を刈るように、タタールの剣でルスの人びとの首がとんだ」――といわれる。
そのうえ数十万人が捕虜として連れ去られ、そのなかには諸公の夫人や姫君など深窓(しんそう)の女性もおり、いくたの悲話が生まれた。
「働くことを知らず、ついこのあいだまで美しい着物をまとい、金銀で飾られ、多くの奴隷にかしずかれていた貴婦人たちが、いまでは野蛮人の奴隷に身をおとし、車をまわして糸を紡いだり、水仕事で手を凍らせた」――と文献は語っている。
そのころ(一二四六)ローマ教皇の使節カルピーニがポーランドからキエフを通過してモンゴルに向かったが、「私が旅したとき、南ロシアのいたるところで眼にしたのは、畑に散らばっている無数の人骨としゃれこうべであった。
かってはあれほど繁栄していた首都キエフでさえも、いまではわずかに人家二百を数えるだけで、そこに住む人たちも生活苦にうめいていた」――と記していた。
これより約三百年間、ロシアの上には「タタールのくびき」がつづき、歴史家はこの時代を「沈滞期」とよぶ。
すなわち、「ルスの国土についての格調高いひびきはもはやきこえなくなった。
内外の不幸に打ちかしがれて、人びとは臆病になり、狭量になり、私利私欲のみを求めるようになった」――と慨嘆するのである。
ところで、「疾風(はやて)のように」ロシアを征服した抜都(バツ)のタタール軍は、占領地を金帳汗国(きんちょうかんこく=キプチャック汗国)に編入したがその行政権を直接にぎることはしないで、ルスの諸公がこれまでの所領を統治することを許した。
ただし、貢納の取り立てだけは容赦なく行なわれた。
そこで次のような歌が流行した。
「もしもお金がないならば、子供をさらってまいります。
もしも子供がないならば、女房をもらってまいります。
もしも女房もないならば、おまえの首をもってゆくぞ。」
タタールにさらわれた婦女子は、ベネチアやジェノバの奴隷商人に売りとばされた。
中央アジアや黒海沿岸でルスの子守歌がしばしば聞かれたというのは、このころの話である。