『絶対主義の盛衰 世界の歴史9』社会思想社、1974年
1 エリザベス朝――四十四年間のイギリスの治世――
2 流血のメアリー
メアリーが即位したとき、イギリスは宗教改革からすでに二十年ちかく経過しており、教皇至上権を知らない世代が成年に達していた。
そのうえイギリス人には、外国の支配――教皇至上権もそれであるが――に対してきわめて敏感な国民感情があった。
母親のキャサリンから、スペイン・カトリシズムの精神をうけついだメアリーは、このイギリスにふたたび教皇至上権をうちたて、カトリシズムを復活させようとした。
そして、さきに祈祷書をつくったクランマーなど、有力な聖職者たちをロンドン塔におくった。
このとき、イギリスから信仰の自由をもとめて、大陸にのがれたものも少なくなかった。
彼らは各地で組織をつくり、「メアリー時代の亡命者」として、プロパガンダを行ない、メアリーを攻撃した。
一方、エリザベスはこれに対して超然たる態度をとっていたが、カトリシズム一色の宮廷の雰囲気に身の危険を感じ、改宗の決意を表明した。
メアリーのカトリシズム復帰は、政治を無視して宗教に傾倒した女性として、多分に感情的な考え方のあらわれである。
そして彼女の感情がもっともむきだしになったのは、結婚間題であろう。
「政治ではなく、感情がメアリーの心に指令を下した」のである。
当時、メアリーの夫はイギリス人であるべきであるという考えが一般的であったが、彼女自身はスペインの王太子フェリペをえらんだ。
メアリーは恋の病にとりつかれた純情娘のようになり、ほかの人と結婚するくらいならば、死をえらぶとまでいいだすありさま。
このとき騎士のワイアットが反乱をおこした。この結婚を中止させ、新教を復活し、メアリーを退位させるためである。
反乱軍はケントからロンドンに迫る。
しかし反乱はまもなく女王の軍に鎮圧され、エリザベスはこれに関係があると疑われた。
ワイアッ卜がエリザベスに手紙をおくり、エリザベスの召使のなかに、陰謀に加担したものがあったからである。
一五五四年三月十五日、ワイアットが裁判にかけられ、翌日エリザベスがロンドン塔におくられることになった。
彼女はこれを聞いてひじょうにおどろき、メアリーに謁見を願いでたが、ゆるされなかった。
彼女は、
「陛下、私は陛下のお体を傷つけ、国家を危うぐするおそれのあることは、実行したことも、かくしたことも、同意したこともありません。」と弁解したが、いれられず、ロンドン塔に投獄された。
四月十一日、処刑されたワイアットは処刑台上からエリザベスの無実をうつたえた。
その後五月十九日、エリザベスは証拠不十分で釈放され、当局の監視をうける身の上となった。
一方スペイン王子フェリペは一五五四年七月イギリスにわたり、メアリーと結婚した。
メアリーは結婚後、ローマ教皇との和解政策をすすめた。
異端火刑法を復活し、ヘンリ一八世時代の宗教改革関係の法律を廃し、教皇至上権を確立した。
その結果、新教徒の迫害がはじまり、三百名のものが火刑に処せられた。
「流血のメアリー」というあだ名は、ここに由来する。
そのうえメアリーはフェリペの要請で、一五五七年フランスと開戦、翌年、百年戦争後イギリスの大陸における唯一の根拠地であったカレーを失った。
こうしてメアリーは、やることなすことすべてがイギリスの国民感情に反し、逆にエリザペスに対する期待がたかまった。
このころからメアリーは病が重くなり、十一月六日枢密院議官の圧力でエリザベスを王位継承者とみとめ、十七日午前七時、最期の息をひきとった。