『宋朝とモンゴル 世界の歴史6』社会思想社、1974年
13 内陸の王者
4 世界の首都
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/22/63/1b5dfd1d812b0b5dd92e2a482bd16810.jpg)
クラビホの報告のうち、ティムールの手によるサマルカンドの町造りを述べたところは、とくに注目をひくものがある。
「サマルカンド地方では商業が非常にさかんだったので、毎年この町には、シナやインドやタタール、そのほか各地から、あらゆる種類の商品が、たくさん移入されていた。
しかしいままでこれらの品物を置き、陳列するのに適当た場所というのが、この町にはなかったのである。
そこでティムールがこのたび命じたのは、両側にあらゆる種類の品を売る商店をならべた通りを一本、サマルカンドを貫通するように建設することだった。……
職人は、監督が必要とするだけ集められ、こと欠くことはなかった。
ひるま働いたものは夜になると帰り、かわって同じだけの人数のものが夜どおし仕事をする。
あるものが家屋を倒していると、ほかのものは街路の地割りをするし、さらに別のものは新建築にとりかかっている。
という具合で、その日夜の騒ぎは、地獄の全悪魔がここで仕事をしているかのようだった。
このようにして二十日間で、この新しい街路は完成したというのであるから、まことに驚嘆せざるを得ないであろう。」
「世界の人間が住める地域の広さは、二人の王を持つほどひろくはない」と、ティムールは言った。
この言葉がしめしているように、その各地への遠征の動機は「そこに征服さるべき土地があるから」というものであった。
それが征服そのものに対する生きがい以外の何ものでもなかったことは、たしかである。
しかも、ティムールは、他方ではかなり開明君主的な性格のもちぬしであった。
その生涯のほとんどすべてを軍事についやし何の教育もうけていなかったが、トルコ語はもちろん、ペルシア語もよくし、学問の何たるかをよくきまえていた。
遠征地から、多くの学者や文人をサマルカンドにまねいたのも、そのためであった。
また、その歴史知識は、そのころの一流の歴史家を驚かせるに十分であったという。
ティムールは、サマルカンドのまわりに、バグダードとか、ダマスクスとか、シーラーズとか、ミスル(カイロ)とか、イスラム諸国の主要都市の名をもつ集落を建設した。
これは、サマルカンドを「世界の首都」にしようとする意志のあらわれにほかならない。
サマルカンドには、壮麗な宮殿をはじめ、かず多くのイスラム寺院、また寺院や霊廟を建立した。灌漑の設備をととのえ、クラビホが伝えているように市場を拡大した。
このため、サマルカンドだけでなく、トランスオキシアナ全体が、モンゴルの侵入による荒廃から立ちなおることになった。
サマルカンドでは、イラン、シリア、トルコそのほかから捕虜としてつれてこられた職人の手で、絹織物・ガラス・武器類・陶器・絨毯(じゅうたん)・紙・金属細工など、さまざまの手工業がさかえた。
そして市場や道路や隊商宿の整備とあいまって、サマルカンドは「シルク・ロード」を通ずる東西交通、交易の中継市場となる。
ここを中心として、イラン文化を基調とするトルコ・イスラム文化が花ひらくに至った。
中央アジアにおける文芸復興期の幕が、切っておとされたともいえようか。
こうしてティムール帝国は、シルク・ロードのかなめたるサマルカンドにおいて、その落日寸前の員後の光輝をはなつに至ったのである。
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13 内陸の王者
4 世界の首都
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クラビホの報告のうち、ティムールの手によるサマルカンドの町造りを述べたところは、とくに注目をひくものがある。
「サマルカンド地方では商業が非常にさかんだったので、毎年この町には、シナやインドやタタール、そのほか各地から、あらゆる種類の商品が、たくさん移入されていた。
しかしいままでこれらの品物を置き、陳列するのに適当た場所というのが、この町にはなかったのである。
そこでティムールがこのたび命じたのは、両側にあらゆる種類の品を売る商店をならべた通りを一本、サマルカンドを貫通するように建設することだった。……
職人は、監督が必要とするだけ集められ、こと欠くことはなかった。
ひるま働いたものは夜になると帰り、かわって同じだけの人数のものが夜どおし仕事をする。
あるものが家屋を倒していると、ほかのものは街路の地割りをするし、さらに別のものは新建築にとりかかっている。
という具合で、その日夜の騒ぎは、地獄の全悪魔がここで仕事をしているかのようだった。
このようにして二十日間で、この新しい街路は完成したというのであるから、まことに驚嘆せざるを得ないであろう。」
「世界の人間が住める地域の広さは、二人の王を持つほどひろくはない」と、ティムールは言った。
この言葉がしめしているように、その各地への遠征の動機は「そこに征服さるべき土地があるから」というものであった。
それが征服そのものに対する生きがい以外の何ものでもなかったことは、たしかである。
しかも、ティムールは、他方ではかなり開明君主的な性格のもちぬしであった。
その生涯のほとんどすべてを軍事についやし何の教育もうけていなかったが、トルコ語はもちろん、ペルシア語もよくし、学問の何たるかをよくきまえていた。
遠征地から、多くの学者や文人をサマルカンドにまねいたのも、そのためであった。
また、その歴史知識は、そのころの一流の歴史家を驚かせるに十分であったという。
ティムールは、サマルカンドのまわりに、バグダードとか、ダマスクスとか、シーラーズとか、ミスル(カイロ)とか、イスラム諸国の主要都市の名をもつ集落を建設した。
これは、サマルカンドを「世界の首都」にしようとする意志のあらわれにほかならない。
サマルカンドには、壮麗な宮殿をはじめ、かず多くのイスラム寺院、また寺院や霊廟を建立した。灌漑の設備をととのえ、クラビホが伝えているように市場を拡大した。
このため、サマルカンドだけでなく、トランスオキシアナ全体が、モンゴルの侵入による荒廃から立ちなおることになった。
サマルカンドでは、イラン、シリア、トルコそのほかから捕虜としてつれてこられた職人の手で、絹織物・ガラス・武器類・陶器・絨毯(じゅうたん)・紙・金属細工など、さまざまの手工業がさかえた。
そして市場や道路や隊商宿の整備とあいまって、サマルカンドは「シルク・ロード」を通ずる東西交通、交易の中継市場となる。
ここを中心として、イラン文化を基調とするトルコ・イスラム文化が花ひらくに至った。
中央アジアにおける文芸復興期の幕が、切っておとされたともいえようか。
こうしてティムール帝国は、シルク・ロードのかなめたるサマルカンドにおいて、その落日寸前の員後の光輝をはなつに至ったのである。
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