『アジア専制帝国 世界の歴史8』社会思想社、1974年
14 西から寄せる波
2 地図と大砲
仏邱機(ポルトガル)は、交易の利と大砲の力で、江南の沿岸に出没し、マカオを拠点とすることに成功した。
つづいて来航し、中国本土のなかに入りはじめたのが、キリスト教の宣教師たちである。
仏郎機の来航に始るヨーロッパ人の往来が、まず現地人の目を見はらせたものは、その船と大砲であった。
「蜈蚣(ごこう=洋人)船は、底がとがり、表面は平らで、風浪をものともしない。
船側には、板をもって矢や石をふせぐ道具があり、長さ、十丈、幅三尺におよぶ。
櫓は四十余本そなえつけられ、銃三十四丁が配置されている。
漕ぎ手は三百人も乗船しており、櫓も人も多いから、無風でも疾走することができる。
ひとたび銃を発射すれば弾丸は雨のようにふりそそぎ、むかうところ敵なしの観がある。
銃は銅で鋳造され、大きな銃は千斤以上の重さがあり、仏郎機と名づけている。」
これは嘉靖のはじめに、仏郎機人を招撫して、その船をえたときの記載である。
「かれらの頼みとするところは巨大な船と大砲にある。
船は、長さ三十丈、広さ六丈におよび、厚さは二尺を下らない。
船檣は高く、うしろは三層の楼をなしている。
船側には小窓が設けられ、銅砲が配置されているし、橋下には二丈におよぶ巨大な鉄製の大砲がある。
これを撃てば石城も破壊され、その震動は数十里にひびきわたる。
世に紅夷砲というのは、紅夷の製造にちなむ。」
これは、オランダの船や大砲についての史書の記録である。
火薬の発明は中国にあるといわれるが、これを利用した鉄砲や大砲の登場は、中国の人びとを驚かした。
鳥銃とか、仏郎機蔵とか、紅夷砲といわれる火器は、明末にいたって重視され、秀吉の朝鮮遠征のときにおける鉄砲の使用は、明側を刺激して、『神器譜』という鉄砲の解説書がつくられたほどである。
ことに、その後の東北におけるヌルハチの勢力に対抗するため、火器が重要視され、マカオの宣教師たちの協力をえて、鋳造をはじめるにいたった。
ヌルハチが寧遠城を攻撃して失敗したのは、明側の大砲の威力によるといわれ、ヌルハチは、そのときの傷がもとで世を去ったという。
大砲の鋳造に協力したことでもわかるように、布教のために来航した宣教師たちは、実用的な文化や科学知識をもって、中国の士大夫(しだいふ=インテリ)層に接近し、布教への道をひらいていった。
宣教師の活動は、十六世紀末から十七世紀にかけて活発となった。
その先端をきったのが、一五八二年マカオに達したマテオ・リッチや、その三年前にマカオに到着していたルズンエーリらである。
二人は、ともにイタリア出身のイエズス会土で、中国布教の開拓者であった。
マカオに到着したリッチらが、北京にいたる道は、決して容易ではなかった。
このことは一六〇一年、はじめて入京をゆるされ、北京に定住をみとめられた事実からうかがえる。
実に二十年に近い歳月を要したのである。
その間にリッチが布教法として身につけたものこそ、西洋学術の紹介を媒介とする知識層や官僚への接近であった。
南京は、その足がかりとなりえた。
リッチが中国の知識人をおどろかしたものは、すこぶる多い。
その代表的なものの一つに、世界地図の作成がある。かれは北京にいたる前に『山海輿(よ)地全図』という世界地図をつくり、知識人の関心をひいている。
北京でも一六○二年、李之藻の協力で『坤典(こんよ)万国全図』とよぶ大きな世界地図を製作し、人びとをおどろかした。
「天下は五大州からなる。第一のアジア州には百余国があり、中国はその一つである。第二をヨーロッパ州といい、七十余国があって、イタリアはその一つである。」
こうした調子で、アフリカ・南北アメリカと紹介されては、この方面の知識にとぼしい中国の知識人たちがおどろくのも無理はない。
紹介するヨーロッパ人も、いわゆる発見時代のころには、相当なさわぎであったことを考えれば、別にふしぎではなかろう。
マテオ・リッチが地理上の知識のみならず、中国知識人の関心をひく天文暦数にも長じていたことは、多くの人びとを動かすのに役だった。
徐光啓や李之藻らは、キリスト教の洗礼をうけ、信者としてリッチに協力するほどであった。
その成果が、さきの世界地図や、ユークリッド幾何学を漢訳した『幾何原本』その他の訳書であった。また明末には、アダム・シャールらと『崇禎暦書』などを作成している。大砲の鋳造に対する宣教師の協力も、徐光啓の努力によるものであった。
仏郎機(ポルトガル人)が、金(かね)と大砲をもって中国への拠点をきずき、その足場から宣教師が西洋学術とキリスト教をもって本土に入り、布教のためには大砲の鋳造にも協力する。それが現実であった。