『東洋の古典文明 世界の歴史3』社会思想社、1974年
11 項羽と劉邦
6 豪雄の最期
項羽の兵は十万、垓下(がいか)の城にたてこもった。
これに対して漢の軍は三十万、その主力を韓信がひきいた。諸侯の軍も来り会し、ともに垓下の城をいくえにも囲んだ(前二〇二)。
おりしも冬の十一月である。ある夜、寒風にまじって、四面をかこんだ漢軍から楚の歌が聞こえてきた。
項羽はおおいにおどろいた。
「もはや漢は、楚の地をみな取ったのか。なんと楚人の多きことよ」(四面楚歌)。
項羽は夜なかに起きあがり、帳(とばり)のなかで酒を飲んだ。かたわらに美人(愛人の称)があった。
名を虞(ぐ)といった。いつも寵愛(ちょうあい)せられ、項羽にしたがっていた。また駿馬(しゅんめ)があり、名を騅(すい)といった。いつも項羽が愛乗していた。
項羽に悲歌忼慨(こうがい=心が激して嘆き悲しむ)し、詩をつくってうたった。
力抜山兮気蓋世
時不利兮誰不逝
騅不逝兮可奈何
虞兮虞兮奈若何 力は山を抜き、気は世を蓋(おお)う、
時に利あらず、騅(すい)逝(ゆ)かず、
騅の逝かざるは、奈何(いかん)かすべき、
虞や、虞や、なんじを奈何(いかん)せん。
うたうこと数回、虞美人がこれに唱和した。項羽の顔に、涙が数行、ながれた。
左右の者も、みな泣いた。だれも、顔を、あげなかった。
酒宴がおわって項羽は馬に乗った。壮士のしたがうもの八百騎、ただちに夜陰に乗じて、かこみをぬけ、南にむかって走りさった。
夜が明けて漢軍がこれを知った。五十騎が追った。
淮(わい)水をわたったとき、なお従っていた者は百余人であった。
やがて項羽は、道にまよって、大きな沼のなかに、はまりこんでしまった。漢の兵が迫いついた。
すでに従う者は、二十八騎となっていた。漢の兵は数千騎。もはや脱出できぬことを、項羽はさとった。
かくて騎首をめぐらし、漢軍のなかに駆けいった。わかれては合し、合してはわかれ、たちまち数十人を斬った。
ふたたび配下をあつめると、二騎をうしなったのみであった。
そこから項羽は東して烏江(うこう)にたっした。烏江の亭長が、船を用意してむかえた。
「江東(長江下流域の南岸地方)は小なる地でありますが、それでも千里四方はあり、衆は数十万、また王たるに足りましょう。願わくは大王、いそいでおわたりください」。
項羽はわらっていった。
「天のわれをほろぽすに、われなんぞひとりわたらん。かつわれ、江東の子弟八千人と江をわたりて西す。
いまや一人のかえる者なし。たとえ江東の父兄、あわれんでわれを王とせんも、われなんの面目あってか、これを見ん。
たとえ、かれ言わずとも、われひとり心に愧(は)じざらんや」。
かくて短い剣のみで敵に近づく。馬もすてた。項羽は手ずからあまたの漢兵を殺したが、その身にも十余の傷をうけた。
やがて知った顔をみつけ、「お前、むかしなじみじゃないか」
「きけば漢は、わしの頭に千金と万戸の邑(ゆう)をかけているそうな。お前のために恵んでやろう」。
いうなり、みずから首はねて死んだ。三十一歳であった。
項羽の首と胴体は、五人の者がわけあって取り、のちに万戸の邑をわけて与えられた。
11 項羽と劉邦
6 豪雄の最期
項羽の兵は十万、垓下(がいか)の城にたてこもった。
これに対して漢の軍は三十万、その主力を韓信がひきいた。諸侯の軍も来り会し、ともに垓下の城をいくえにも囲んだ(前二〇二)。
おりしも冬の十一月である。ある夜、寒風にまじって、四面をかこんだ漢軍から楚の歌が聞こえてきた。
項羽はおおいにおどろいた。
「もはや漢は、楚の地をみな取ったのか。なんと楚人の多きことよ」(四面楚歌)。
項羽は夜なかに起きあがり、帳(とばり)のなかで酒を飲んだ。かたわらに美人(愛人の称)があった。
名を虞(ぐ)といった。いつも寵愛(ちょうあい)せられ、項羽にしたがっていた。また駿馬(しゅんめ)があり、名を騅(すい)といった。いつも項羽が愛乗していた。
項羽に悲歌忼慨(こうがい=心が激して嘆き悲しむ)し、詩をつくってうたった。
力抜山兮気蓋世
時不利兮誰不逝
騅不逝兮可奈何
虞兮虞兮奈若何 力は山を抜き、気は世を蓋(おお)う、
時に利あらず、騅(すい)逝(ゆ)かず、
騅の逝かざるは、奈何(いかん)かすべき、
虞や、虞や、なんじを奈何(いかん)せん。
うたうこと数回、虞美人がこれに唱和した。項羽の顔に、涙が数行、ながれた。
左右の者も、みな泣いた。だれも、顔を、あげなかった。
酒宴がおわって項羽は馬に乗った。壮士のしたがうもの八百騎、ただちに夜陰に乗じて、かこみをぬけ、南にむかって走りさった。
夜が明けて漢軍がこれを知った。五十騎が追った。
淮(わい)水をわたったとき、なお従っていた者は百余人であった。
やがて項羽は、道にまよって、大きな沼のなかに、はまりこんでしまった。漢の兵が迫いついた。
すでに従う者は、二十八騎となっていた。漢の兵は数千騎。もはや脱出できぬことを、項羽はさとった。
かくて騎首をめぐらし、漢軍のなかに駆けいった。わかれては合し、合してはわかれ、たちまち数十人を斬った。
ふたたび配下をあつめると、二騎をうしなったのみであった。
そこから項羽は東して烏江(うこう)にたっした。烏江の亭長が、船を用意してむかえた。
「江東(長江下流域の南岸地方)は小なる地でありますが、それでも千里四方はあり、衆は数十万、また王たるに足りましょう。願わくは大王、いそいでおわたりください」。
項羽はわらっていった。
「天のわれをほろぽすに、われなんぞひとりわたらん。かつわれ、江東の子弟八千人と江をわたりて西す。
いまや一人のかえる者なし。たとえ江東の父兄、あわれんでわれを王とせんも、われなんの面目あってか、これを見ん。
たとえ、かれ言わずとも、われひとり心に愧(は)じざらんや」。
かくて短い剣のみで敵に近づく。馬もすてた。項羽は手ずからあまたの漢兵を殺したが、その身にも十余の傷をうけた。
やがて知った顔をみつけ、「お前、むかしなじみじゃないか」
「きけば漢は、わしの頭に千金と万戸の邑(ゆう)をかけているそうな。お前のために恵んでやろう」。
いうなり、みずから首はねて死んだ。三十一歳であった。
項羽の首と胴体は、五人の者がわけあって取り、のちに万戸の邑をわけて与えられた。