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1-8 ネストルのさかずき

2018-01-30 10:50:06 | 世界史
『古代ヨーロッパ 世界の歴史2』社会思想社、1974年

1 エーゲ海の発見 ――ホメロスをめぐって――

8 ネストルのさかずき

 『イリアス』のなかに「ネストのさかずき」という立派な美しいさかずきが歌われている。
 ……老人は故郷から持ってきたたいへん美しい、足つきのさかずきをそばにおいている。
 それには黄金の鋲がいくつもはめこんであり、それに四つの取っ手がついている。
 その取っ手のそれぞれの両側には、黄金づくりの二羽の鳩が、とまっている。
 また下のほうには二重の台座がついていた。
 そのさかずきに酒がいっぱいつがれると、他の者はテーブルから動かすことさえ
 骨が折れたが、ネストルは、老人なのにらくらくとそれを持ちあげた……
 ここに「老人」とうたわれているのは、ギリシア軍の英雄の一人で、ピュロスのネストル王だった。
 このさかずきは、詩人の空想がつくりあげた、実際には存在しない立派なさかずきと考えられていた。
 ところが、シュリーマンがミケーネから発掘したもののなかに、この「ネストルのさかずき」を思わせるようなものがあった。
 取っ手の数は二つであったが、それには鳥がとまっていた。
 シュリーマンは、「ホメロスの詩を聖書以上に信じた」といっているが、このさかずきが発掘されたため、彼のホメロス信仰はいっそう強められたのだった。
 ホメロスの詩と歴史的事実の関係を考えるうえに、この黄金のさかずきは大切なものだったが、一九五二年からは、ネストル王にさらに新しい光があてられ、彼は歴史の前面に押し出されてきた。
 一九三九年から、アメリカの考古学者ブレゲンが中心となり、ギリシアとアメリカが協力して、ネストル王の居城のピュロスの発掘を、組織的にはじめた。
 ピュロスはペロポネソス半島の西南にあり、ここからミケーネ式の王宮が発掘された。
 そして文字を書いた粘土板が五、六百枚出てきた。粘土板はそののちも、五百枚近くみつかった。
 この粘土板に書いてあった文字は「ミノア線文字B」といわれるものだった。

 ミノア文字はエーゲ文明時代に使われたもので、エヴァンズがクノッソスを発掘して以来、それは知られていた。
 エヴァンズはそれを整理して、三種類に分類した。絵文字と線文字Aと線文字Bだった。
 おおぜいの学者たちが、ミノア文字を解読しようと長いあいだいろいろ苦心し、なかにはこれを読み解いたと発表した学者もいた。
 しかし、けっきょくそれは誤りで、ミノア文字は読み解けない「謎の文字」とされていた。
 ところが、ピュロスの発掘で、線文字Bを書いた粘土板がたくさんみつかってから、材料が豊富になったため、研究が急にすすみ、とうとう一九五二年に、イギリスのヴェントリスという人が、それを読み解いた。
 それが古いギリシア語をあらわしている文字であることがわかったのだった。
 この解読の発表もはじめは疑う学者もいたが、その後研究がすすむにつれ、それが正しいことがわかるようになり、今では、疑う者はいない。
 ミノア線文字Bが解読されたため、ミケーネ時代の研究は急にすすんだ。
 そしてホメロスの詩と、歴史事実、またミケーネ文明が、どのように関係しているかも、新しく考えなおさなくてはならぬようになってきた。
 ホメロスと歴史事実との関係は、シュリーマンが信じていたように、そんなに簡単にはつながっていない。
 しかし、そのあいだに深い関係があることは、エーゲ文明の研究、線文字Bの解読によって、明らかになり、また今後いっそう明らかになる可能性は強くなってきた。
 シュリーマンの発掘や、考え方はそうとう強引で、いろいろの誤りもあったが、とにかく彼の情熱につかれた行動が、長いあいだ人々に忘れられていたエーゲ文明を再発見し、ホメロスの物語詩が、単に詩人の空想の産物ではないことを、我々に教えたことは確かで、彼の功績は無視することができない。


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