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7-2-4 アフリカの誘惑

2023-09-08 19:04:21 | 世界史
『文芸復興の時代 世界の歴史7』社会思想社、1974年
2 航海王という名の王子――ポルトガル夜話――    
4 アフリカの誘惑

 さて具体的なエンリケの航海事業であるが、これはだいたい二種類に分けるのが便利である。
 一つはカナリア、マデイラ、アゾレスといった大西洋の島々に関するものであり、これは無人島に山羊をはなち、自然交配による増加を待つといったのんきな方法にはじまって、しだいに騎士団領としての植民が進んだものである。
 牧畜とさとうきびの栽培で人口も増加し、これらの島は西アフリカ探検の補助的な基地の役割も果たしている。
 もう一つが西アフリカ沿岸の探検であり、島々に対するものとまったく性質が異なっていた。
 島々のほうは再発見・植民という面が強く、封建的植民事業の延長でしかなかったが、西アフリカのほうは、未知の世界へ危険と迷信をのりこえて、一歩一歩進出することであった。
 エンリケはこれを一生の仕事として、十分な研究と装備をおこたらなかった。
 こんにち私たちは、アフリカが頭蓋骨の形をしているということを知っている。
 その後頭部にあたる西海岸をはっきりさせたのが、エンリケ王子の指導による航海である。
 測量術の未発達な古い時代の地図は、不正確なものではあるが、人がなんども往来してさえいれば、ひどく珍妙なものではない。
 キリストより三十歳ほど年長の地理学者ストラボンは、イベリア半島を「牛の皮の形」と記している。
 これはフェニキア人やギリシア人やローマ人の多年の航海の経験からつくり出された、かなり正しいイメージである。
 ところが「天動説」で知られるアレクサンドリアの天文・地理学者プトレマイオス(九〇~一六八)のアフリカ地図の西の部分はひどく直線的であるばかりか、まったくでたらめであった。
 その地図が中世を通じて絶対に正しいとされたが、だれも不目由を感じなかった。
 小数の例外(ノルマン人、オランダ人)があるともいわれるが、それは忘れられ、けっきょくだれも行かなかったし、行こうとも思わなかったからである。
 これに反し一四八九年の、エンリケス・マルテルスの喜望峰のはいっている地図のなんと迫真力のあることか。

 一四三三年まで、ボジャドル岬を越えた船はなかった。
 絶対に越えられない難所という伝説が、船長や水失たちのあいだに定着していた。
 一四二二年から十二年にわたって、エンリケが多額の費用を使ってしばしば派遣した船は、ことごとく失敗した。
 船長たちは迷信の壁を破れなかった。船長だけ決心しても水大たちがいうことをきかないのである。
 船長たちは不名誉のままで帰るわけにはゆかないので、イスラム教徒のグラナダ王国や東地中海の船を襲い、奴隷や掠奪品をみやげにして帰ってきた。
 それはそれで名誉とするはかなかった。
 一四三四年ジル・エアネスという家来が、船長としておそるおそる岬を越えた。彼はまえに一度失敗していた。
 エンリケは羅針盤(らしんばん)や天体観測の技術をしっかり教育することによって、船長や水夫に自信をつけさせ、それによって迷信の壁をうち破らせるよう辛抱強く努力して、成功したわけである。
 絶対に越えられず、海は煮えたぎり、怪物があらわれる……というような水夫仲間の古くからの迷信がこわされたことは、これからの航海の発展にたいへんな刺激をあたえた。
 エアネスは草を持ち帰り、つぎの船でバルダヤという家来が、人と駱駝(らくだ)の足あとを発見して帰った。
 一四三六年の船は、ブランコ(白砂)岬を発見し、大量の海豹(あざらし)の皮と珍しい現地人の漁網を持ち帰った。
 捕虜をつれて帰る目的で若干の戦闘を行なったが、成功しなかった。
 翌年長兄の王ズアルテが死に、幼いアフォンソ五世の即位から内政問題がおこり、航海事業は中断した。
 一四三七年エンリケは末弟フェルナンドとともに、セウタ確保のためアフリカに渡らなくてはならなかった。

 エンリケの遠征軍はイスラム軍に包囲され、休戦協定でフェルナンドを人質に取られて帰国した。
 フェルナンドはアフリカで死んだ。
 セウタはその犠牲において確保された。
 一四四一年アンタン・ゴンサルベスがはじめて捕虜を十人連行してきた。
 そのなかに一人、身分の高いアラビア語を解するものがいた。
 彼は嘘つきで、つぎの航海で逃亡したが、それにしても西アフリカの文化や富が相当なものであることを示した。
 エンリケはここに大きな希望をもち、ローマ教皇に使者を送り、キリスト騎士団の旗のもとに、アフリカで戦うもの全員の贖宥(しょくゆう=罪のゆるし――いわゆる「免罪符」の内容)を求めて許された。
 一四四二年アンタン・ゴンサルベスは、黒人奴隷十人と少量の砂金と駝鳥(だちょう)の卵を持ち帰った。
 ここに西アフリカ探検の物質的な目的は、ほぼ奴隷と黄金と海豹(あざらし)の皮にしぼられ、派遣される船は増加した。
 これまでの航海事業は出費ばかり多く、また一四三七年のアフリカでの敗戦のこともあって、エンリケの評判はむしろ悪かったというが、こうなると風向きが変わり、自発的にキリスト騎士団の旗のもと、航海に出かけようというものが続出した。
 経験からこのころの船は、三本マストのカラベルという帆船が使われるようになっていた。
 漕ぎ手を多く用いる地中海や、西ヨーロッパ沿岸のものとちがい、外洋向きに高い波を予想した設計にし、帆走に主力をおいて乗組員や積みこむ食料を節約したものである。
 一四四四年ベルデ岬を発見、一四四六年ギニア地方の北緯八度のところに達した。
 この年までに計五十一隻が行き、捕えた異教徒は九百二十七人と記録されている。
 ここから南は海流が逆になり、航海技術上解決しなくてはならない問題が残った。
 しかし北緯八度までの海図はますます正確になった。
 だいたい一四五〇年までは夜陰にまぎれて海岸の村落を襲い、住民を捕えて帰る場合が多く、平和的な取り引きは少なかった。
 したがって現地人の投げ槍や毒矢による反撃を受け、指揮官をはじめ船員の大部分が戦死したこともあった。
 その後エンリケの晩年になると、この方法は中止され、隊商を通じての貿易に切りかえた。
 布や小麦や馬とひきかえに奴隷や金を手に入れたが、ポルトガル人が陸路奥地にはいって行くことはあまりなかった。
 猛暑の噂を恐れてでもあったが、船による奴隷集めの能率がよくなり、苦労をする必要を感じなかった。
 現地酋長はポルトガル人との交易に熱心になり、自分で奴隷を集めるようになった。
 黄金については期待したほどの分量はえられなかった。
 しかしポルトガル人は、現地人はほしがるが、じつはあまり価値のないものと交換したから、やはり利益は大きかった。
 馬一頭は奴隷十人以上と交換されていた。
 なおアフリカ沿岸の塩も商業ルートに乗った。
 象牙はまだ珍しく、エンリケは妹のブルゴーニュ公妃に一本を贈っている。
 エンリケは一四一八年から、ポルトガル南端アルガルベのサグレス岬の近くに住み、その宮廷にラゴス港の住民を多く採用し、また宗教にこだわらず、北欧からも、イタリアからも、イスラム世界からも、航海知識をもつ者を客として招き、研究と船員の教育につとめた。
 したがって彼の宮廷は研究所とか、学校というふうに歴史家によって表現される習慣がある。
 一四四五年ごろまでエンリケは子飼いの若い家来を派遣しており、その後しだいにいわば自費渡航の船を認可するようになった。
 海図の秘密ということは、発見のたびに厳重に守られながら、破られつづけたというのが本当のところであろう。
 ラゴスの港には、一四四五年ごろから倉庫と税関ができた。
 エンリケははじめ航海事業の独占権にもとづき、帰った船のもたらした富の五分の一を取った。
 一四五〇年をすぎるとその条件は、自費渡航者の利益の四分の一、エンリケの船で渡航したものの利益の半分というふうに変化しており、利益率は微増しているが、航海の記録はかなり失われたようで、実数がよくわからない。
 アゾレスなどの島々の開発による利益も大きかった。
 これらがことごとくセウタの確保と、航海事業に投ぜられ、エンリケの死んだ一四六〇年、蓄積といえるものはそう多くなかったものと思われる。
 一四五三年五月二十九日、オスマン・トルコがコンスタンティノープルを攻め落とし、ここに東ローマ帝国が滅亡した。
 ローマ教皇は十字軍を呼びかけたが、反応は十一世紀のようなわけにはゆかない。
 ところが若いポルトガル王アフォンソ五世は、大急ぎで海軍をしたててローマに向かい、キビタベッキアの港で待機した。
 叔父のエンリケもこれに従っていた。
 どこからも増援軍はこない。
 ポルトガル海軍は、けっきょくセウタの強化という「十字軍」活動を行なった。
 これはエンリケの最後の遠征であった。
 ヌノ・ゴンサルベスの名画は、このアフリカでの勝利を記念して、王が描かせたものと推定されている。
 オスマン・トルコ進出の結果が、ギリシア人学者のイタリア移住をまねいてルネサンスのギリシア好みを刺激し、他方、東地中海の貿易を妨害して、「地理上の発見」の重要な原因になった、とは普通の西洋史が教えるところである。
 ポルトガルの場合、一四五四年教皇ニコラウス五世はエンリケに、「インドへの航海」の独占権をあたえた。
 この国の十宇軍活動は、当時、イスラム勢力のむこうにあると伝えられていたキリスト教国、すなわちアビシニア(エチオピア)との連絡、これとの協力によるイスラム世界攻撃という夢を、ふくらませることになっていたようである。
 エンリケは一四六〇年、その禁欲の生涯を終わった。
 末弟を人質に取られ、アフリカで死なせた心の傷が、その自虐的な生涯の芯(しん)であったという歴史家もいる。
 アフォンソ五世はその後も軍事的活動に熱中して「アフリカ王」の異名をとったが、封建騎士的でエンリケのような科学性をもたず、非建設的な浪費の生涯を送り、一度は引退して乞食僧になろうとしたりした。
 ジュアン二世は即位した一四八一年、「父王は道路と航路しか残してくれなかった」とぼやいた。
 このジュアン二世によって、エンリケの事業の積極的な継承が行なわれ、「大航海時代」のディアスやガマの名が登場するのである。





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