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8-10-3 統一の達成

2024-01-30 20:14:32 | 世界史


『アジア専制帝国 世界の歴史8』社会思想社、1974年
10 大清帝国の完成
3 統一の達成

 南風たる明朝の中国支配は、その内側からくずれ、二百七十余年の統治に終止符をうった。
 王朝劇の終幕を告げる幕をひいたものは、李自成であり、北風の清朝ではない。
 さらに、あらたな王朝劇の開幕を告げるべく、垂れ幕のひもをひいたのも、北風の清朝ではなく、明朝の武将たる呉三桂であった。
 北風をさえぎるべく人民の血と汗をもってきずかれた万里の長城の一大関門は、内側からひらかれたのである。
 もはや、これまでの隙間(すきま)からもれる北風とはちがった。
 東北地区からおこった北風の清朝は、武力と辮髪をもって、中国社会の全土に吹き荒れはじめることとなった。
 明朝が創業のとき、「胡虜に百年の運なし」といった言葉も、いまはむなしい。
 胡風と胡俗の排撃も、受け身の立場からする反抗となっては、永続しなかった。
 皮肉なことに、全土に吹き荒れる武力と辮髪の先陣に立つものは、民族と風習を同じくしていた農耕社会の武将たちである。
 太祖の晩年に「漢人と漢人を戦わせるのが、われに有利」と進言した上書がいまふたたび思いだされよう。
 昔から中国では、周辺の民族をおさめる場合、「夷をもって夷を制する」という方法がとられてきた。
 明朝における女直の統治にも、これが適用されたのである。
 これを学んだ清朝がもちいたものは、まさにその逆をゆく「漢をもって漢を制する」方法であった。
 地の利を知った漢人の武将が、反清復明(清朝に反抗し、明朝を復興する)をかかげる漢人の武将と戦い、その後陣には北族の精兵がひかえるとあっては反抗のほこさきもにぶる。
 くわえて、受け身の復明運動が孤立と分散の方向をたどるとあっては、もはや大勢はきまったも同然である。
 抵抗は、しだいに弱まり、山海関の関門がひらかれてより十七年にして、戦いは一段落をつげた。
 ときに順治十八年(一六六一)のことである。
 征服は年末に一段落をつげたが 順治帝はこの年はじめ、すでに世を去り、四代皇帝には順治帝の第三子が即位していた。
 八歳の聖祖康煕帝である。
 「とくに欲するものはなにもない。
 ただ天下が平和におさまり、民は生業を楽しんで、ともに太平の福をえられるように願うだけである。」
 即位まもない幼少の帝が、太皇太后から「なにを欲するか」ときかれたとき、こたえた言葉が、これであったという。
 「三藩および治水と漕運をもって、治政の三大事となす。」
 康熈八年(一六六九)、親政をおこなうこととなった帝は、日夜この三事を考え、みずからこれを大書して、宮中の柱にかけておいたという。
 真偽のほどはともかく、帝の治政に対する熱意や決断、その人となりを伝える記載は、史書に多い。
 かつて順治帝が五歳で即位し、ドルゴンが政治をもっぱらにしたように、即位のはじめ、康熈帝の治政を左右したのは、オボイ以下、四人の輔政大臣であった。
 オボイは、その最大の実力者として、ほかの三大臣をしりぞけ、政務をとりしまった。
 康熈帝の親政は、その克服からはじめねばならなかった。
 巧妙な策をもって、これをしりぞけたのが、康煕八年であった。
 それは順治帝がドルゴンの死後、順治八年に親政をはじめ、これまでの勢力を克服しながら独裁への道をとりはじめたのと、奇しくも類似する。
 明の遺王はすでにたおれ、政治を左右したオボイも処罪した康煕帝が、つぎに克服しなければならなかった問題はなにか。
 これこそ三藩の打倒である。中国統一の先頭に立ち、明朝の残存勢力を平定するに功あった旧明の武将たちは、大きな勢力となっている。
 ことに藩王となって勢いをふるっていたのが、雲南の平西王たる呉三桂、広東の平南王たる尚可喜、福建の靖南王たる耿仲明の子の継茂であった。
 この三藩は、とおく華南にあって、さながら独立国の観を示していた。
 将来の禍根をたつためには、いまこそ打倒のときと、わかい康煕帝は考えたにちがいない。
 「呉逆の蓄謀はすでに久しい。すみやかに除かねば、悪性のできもののごとく、わざわいは大きくなる。
 もはやその勢いは大である。除こうとしてもそむくし、除かなくてもそむくは必定。機先を制するにしかず。」190
 三藩の処置をめぐって論議がわきたったとき、康煕帝はこのように決断して、撤藩の詔をだした。
 はたして予期したように、三藩は反乱をおこした。
 群臣のなかには、撤藩を主張した識者をせんさくする者もあった。

 帝は「朕が決定したことで、だれにも責任はない」と、毅然とした態度で、これを抑えたという。
 ときに康煕十二年(一六七三)であった。
 乱の平定には八年を要した。その間、乱を好機として、内モンゴルのチャハル部も反旗をひるがえし、異心を暴露した。
 帝は、これを機にチャハルの勢力を根絶し、内モンゴルの禍根をたつとともに、清朝の支配下に編入してしまった。
 撤藩を動機とする三藩の乱は、こうして清朝の内部における蒙漢両族の反清的な芽を、いっきょにつみとる機会をあたえたのであった。
 いまや、満蒙漢にわたる当面の危険分子はとりのぞかれ、内部の支配体制は、ひとまず安全圈にはいった。
 つぎに残された問題は、南方の海上にある台湾と、北方のアムール川(黒龍江)におけるロシアとの問題であり、西方のジュンガルとチベットの問題であった。
 康熈二十年(一六八一)に三藩を平定したのち、三年後には台湾の鄭氏をしたがえて、清朝の配下においた。
 台湾が中国領となったのは、これより以後である。
 ついで、東北地区の北辺を流れるアムール川を南下していたロシアへの反攻にうつる。
 かくて二十四年(一六八五)江岸のアルバジン城を攻略し、これをしりぞけた。
 紛争は二十八年(一六八九)のネルチンスク条約で一段落し、両国の国境が画定された。
 この条約は、中国がヨーロッパの国とむすんだ最初のものである。
 のこる懸案は、ジュンガルとチベットである。
 その処理には、二十九年(一六九〇)の親征より、三十年を要し、チベットにおけるジュンガル勢力の駆逐、トルファン進出をなしとげたが、完全な制圧にはいたらなかった。
 ともあれ康熈(こうき)帝の一代を通じ、中国本土とその周辺に対する統一の基礎は、完成したのである。




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