『絶対主義の盛衰 世界の歴史9』社会思想社、1974年
1 エリザベス朝――四十四年間のイギリスの治世――
1 日陰の身
一五五八年十一月二十三日、エリザベス一世(⑤)はハットフィールドの館(やかた)を発してロンドンに向かう。
メアリー一世(④)崩御のあとをうけて、イギリス女王の位につくためである。お伴の貴族やジェントルマンおよび彼らの夫人たちは、一千名以上におよんだという。エリザベスはホワイトホールの王宮でクリスマスを迎え、翌年一月十五日戴冠(たいかん)式を挙行する。
エリザベス一世の四十四年にわたる治世がはじまった。
それまでの道は平らかではない。
彼女がこの世に生をうけたのは、二十五年前、一五三三年九月七日、母はヘンリー八世の第二王妃アン・ブーリン(一五〇七~三六)。
アンは、ヘンリー八世の最初の王妃キャサリン(一四八五~一五三六)づきの侍女で、「その黒い目・陽気な人柄・無雑作なフランス風の物腰」をもって、ヘンリー八世の心をとらえた。
王はアンと結婚するためキャサリンを離婚しようとしたが、ローマ教皇のゆるしがえられない。
そこで、イギリス国教会をローマ・カトリック教会から独立させ、イギリス宗教改革の端(たん)をひらいたことは有名である。
ところでキャサリン離婚の大事な点は、キャサリンの生存する子が娘のメアリー・デューターのみであり、しかもキャサリンがヘンリー八世より六歳も年長で、男子ができる見こみがなかったことである。
したがってヘンリー八世(②)亡きあとは、メアリー・デューター(④)が女王として王位をつぐことになるが、イギリスでは女王の統治はひじょうな危険をともなうものとされた。
女王はいずれ結婚しなければならないが、国内の貴族と結婚した場合には、かならずや女王の夫の勢力を嫉視(しっし)するものがあらわれ、内乱をひきおこす心配がある。
また、外国の王侯と結婚すれば、外国の支配がイギリスにおよぶ危険がある。
一方、若いアン・ブーリンは、これから男子を生むものと期待された。
一五三二年の秋、ヘンリー八世はアンと同棲(どうせい)し、三三年一月二十五日、秘密に結婚したが、当時アンはすでに身ごもっていた。
ローマ教皇のためらいをよそに、イギリスではこの年五月、王とキャサリンとの結婚の無効が宣せられ、アンとの結婚が正式にみとめられて、メアリーは正統の子でないとされた。
当時アンに対する期待はひじょうなもので、「王子をおくり給え」という祈祷があげられ、医師も、占い師も、男子の生まれることをうけあった。ところが期待や予言もむなしく、生まれたのは女子で、これがわがエリザペスである。
ヘンリー八世(②)の失望はひじょうに大きかった。
アンはその後三年目の一五三六年一月、男子を流産したのち、五月二日突然逮捕され、ロンドン塔におくられ、、五人の男と姦通したという理由で死刑となった。
その結果ヘンリーとアンとの結婚は無効、エリザベスは庶子というわけで、メアリー同様日陰の身の上となった。
しかし二人はヘンリーにとって、そのあとに生まれた王太子エドワード(③)と同じように「最愛の子」で、彼らは宮廷にでて、公式の儀式に参列した。
一五四四年、議会は王位継承法を制定して、エドワードに継承者のない場合、王位はメアリーによって継承されるべく、さらにメアリーに継承者のない場合は、エリザベスによって継承されるべきことを定めた。
エリザベスは少女時代、ひじょうに勉強した。
ギリシア学者グリンダルからギリシア語とラテン語を学び、彼の没後は有名なヒューマニスト、アスカムの教えをうけた。
アスカムはエリザベスについて、こう評している。
「エリザベスはちょうど十六歳の誕生日をむかえ、その年齢にしては、ふしぎなほどの威厳とやさしさとを示している。
真の宗教と学問に関する勉強は、ひじょうに真剣である。
王女の心には女性特有の弱点は一つもない。
不屈な点は、男子に匹敵する。王女はフランス語とイタリア語を、英語と同じように話し、ギリシア語やラテン語を書くとき、その筆跡ほど美しいものはない。
王女は音楽をきくことが好きであるとともに、自らも音楽にひいでている。
身の飾りは、派手というよりも優美である。」
まことにルネサンス君主として、典型的な教養である。
一五四七年一月、父ヘンリー八世がなくなり、エリザベスの異母弟である王太子エドワードが即位した。
エドワード六世である。
王は当時九歳の少年であったから、叔父のハーフォート伯エドワード・シーモア(一五〇六~五二)が摂政となり、サマセット公に叙せられた。
このサマセット公のもとで、トマス・クランマーが新教にもとづく祈祷書をつくったが、一五四九年礼拝統一法が制定され、教会の儀式は同祈祷書によるべきことが定められた。
これがヘンリー八世の「政治上の宗教改革」に対して、「教義上の宗教改革」といわれるものである。
エリザベスはこの時代、国教徒になったが、サマセクト公の弟の反逆事件にまきこまれ、疑いをかけられたことがあった。
その後エドワードの治世にはサマセット公の没落、これに代わるノーサンバランド公ジョン・ダッドリー(一五〇二~五三)の台頭のような宮中の陰謀的な事件がしきりに起こった。
しかしエリザベスはこのどれにもまきこまれないように、慎重に行動した。
一五五三年エドワード王が没すると、ノーサンバランド公がカトリック教徒のメアリーの即位を妨げるため、ヘンリー八世の妹の孫で、自分の息子と結婚していたジェーン・グレーを女王に擁立する運動をおこして、失敗した。
エリザベスはこの事件にも関係しなかった。