『古代ヨーロッパ 世界の歴史2』社会思想社、1974年
2 日蝕を最初に予言した人
3 日蝕の予言
タレスがいた当時のイオニア諸市は、じつはたいへんな困難に際会していた。
小アジアの海岸地帯には、ギリシア人が都市国家をつくって住んでいたが、内陸には、リュディアという国があり、ギュゲスという王が、紀元前六八七年ころサルディスを都にさだめ、栄えていた。
彼らにとっては海岸地帯のギリシア都市がじゃまで、これに干渉してきた。
そのころイオニア地方には十二のギリシア都市があった。
ギュゲス王の干渉に、小さな都市国家では対抗できないので、タレスは十二市によびかけて、合同して一つの国になり、テオス市をその首都にしようと提案した。
しかし自治独立の意志の強いギリシア人は、このタレスの提案をいれなかった。
当時リュディアより東に、アルメニア山地から起こったメディアという国があり、しだいに周囲をあわせて、強い大きな国になりつつあった。
メディアは西のほうに進出して来て、リュディアと紀元前五九〇年ころから衝突した。
戦いは六年間もつづいたが、なかなか勝敗が決しなかった。
そのうえ、両軍が戦っているときに、たまたま日蝕が起こった。
メディアのキュアクサレス王も、リュディアのアリュアッテス王も、それを不吉な前兆、あるいは神の怒りなどと考え、両軍は和睦することになった。
そして長期間の休戦を両国は約束した。
ヘロドトスという有名なギリシアの歴史家は、この日蝕をタレスがかねて予言していたと伝えている。
日蝕の起こった年代についてはいろいろの議論があり、学者によって紀元前六二五年から五八三年までの種々の説があったが、今ではだいたい、紀元前五八五年五月二十八日のことだろうといわれている。
タレスはこのように、世界ではじめて日蝕を予言した人といわれている。しかし、彼は地球が太陽をまわり、地球のまわりを月がまわっているために日蝕が起こることや、その周期のことを知っていて、日蝕を予言したとはいえない。
今までに、いつといつといつ日蝕があったから、今度はこのあたりに、日蝕が起こるだろうといった予言だったろうと思われる。
さて、メディアとリュディアのあいだには、このようにして休戦ができたが、その後メディアでは内乱が起こった。
キュアクサレス王の次の王アステュアゲスの娘の婿に、キュロスという男がいた。
キュロスは反旗をひるがえして、アステュアゲス王を捕え、自分が王になり、独立した。
これがペルシアのはじまりで、ペルシアはのちには、オリエントを統一して、大帝国となった。
キュロスは、近隣の国々をつぎつぎにあわせていった。
リュディア王クロイソスは、このようすをみて、これ以上強くならぬうちにと、ペルシアに戦争をしかけた。
クロイソスはイオニアのギリシア諸市に、援軍を出してくれるようによびかけた。
諸市はリュディアの勢いをおそれて援軍を出した。しかしタレスは、ミレトス市民に説いて援軍を出させなかった。
戦いはしばらくつづいたが、けっきょくペルシア軍は、紀元前五四六年、サルディスを落とし、クロイソスをとりこにした。
このとき、他の諸市はみなペルシアの支配下にはいり、ペルシアは自分の意志のままにあやつれる者を、それらの市の支配者として立てた。
しかし、リュディアに援軍を出さなかったミレトスだけは、完全な独立を認められたという。
タレスはミレトス市に、リュディア側に味方することをいましめたが、彼自身は、クロイソス軍に参加したとも伝えられる。
クロイソス軍がキュロス軍を攻めるために、ハリュス川まで着いたとき、そこには橋がなかった。
クロイソス軍に加わっていたタレスは、くふうして運河をつくり、ハリュス川の水を半分ほかに流して川の水を浅くし、軍隊は川を渡ることができたヒヘロドトスは伝えている。
もっとも、この話を伝えているヘロドトス自身が、この話はあやしいといい、「それでは帰りはどうしたのだろうか」きっと「本当は橋があり、それを渡ったにちがいない」といっている。
リュディアがキュロス王に征服されたころにタレスは死んだらしい。
2 日蝕を最初に予言した人
3 日蝕の予言
タレスがいた当時のイオニア諸市は、じつはたいへんな困難に際会していた。
小アジアの海岸地帯には、ギリシア人が都市国家をつくって住んでいたが、内陸には、リュディアという国があり、ギュゲスという王が、紀元前六八七年ころサルディスを都にさだめ、栄えていた。
彼らにとっては海岸地帯のギリシア都市がじゃまで、これに干渉してきた。
そのころイオニア地方には十二のギリシア都市があった。
ギュゲス王の干渉に、小さな都市国家では対抗できないので、タレスは十二市によびかけて、合同して一つの国になり、テオス市をその首都にしようと提案した。
しかし自治独立の意志の強いギリシア人は、このタレスの提案をいれなかった。
当時リュディアより東に、アルメニア山地から起こったメディアという国があり、しだいに周囲をあわせて、強い大きな国になりつつあった。
メディアは西のほうに進出して来て、リュディアと紀元前五九〇年ころから衝突した。
戦いは六年間もつづいたが、なかなか勝敗が決しなかった。
そのうえ、両軍が戦っているときに、たまたま日蝕が起こった。
メディアのキュアクサレス王も、リュディアのアリュアッテス王も、それを不吉な前兆、あるいは神の怒りなどと考え、両軍は和睦することになった。
そして長期間の休戦を両国は約束した。
ヘロドトスという有名なギリシアの歴史家は、この日蝕をタレスがかねて予言していたと伝えている。
日蝕の起こった年代についてはいろいろの議論があり、学者によって紀元前六二五年から五八三年までの種々の説があったが、今ではだいたい、紀元前五八五年五月二十八日のことだろうといわれている。
タレスはこのように、世界ではじめて日蝕を予言した人といわれている。しかし、彼は地球が太陽をまわり、地球のまわりを月がまわっているために日蝕が起こることや、その周期のことを知っていて、日蝕を予言したとはいえない。
今までに、いつといつといつ日蝕があったから、今度はこのあたりに、日蝕が起こるだろうといった予言だったろうと思われる。
さて、メディアとリュディアのあいだには、このようにして休戦ができたが、その後メディアでは内乱が起こった。
キュアクサレス王の次の王アステュアゲスの娘の婿に、キュロスという男がいた。
キュロスは反旗をひるがえして、アステュアゲス王を捕え、自分が王になり、独立した。
これがペルシアのはじまりで、ペルシアはのちには、オリエントを統一して、大帝国となった。
キュロスは、近隣の国々をつぎつぎにあわせていった。
リュディア王クロイソスは、このようすをみて、これ以上強くならぬうちにと、ペルシアに戦争をしかけた。
クロイソスはイオニアのギリシア諸市に、援軍を出してくれるようによびかけた。
諸市はリュディアの勢いをおそれて援軍を出した。しかしタレスは、ミレトス市民に説いて援軍を出させなかった。
戦いはしばらくつづいたが、けっきょくペルシア軍は、紀元前五四六年、サルディスを落とし、クロイソスをとりこにした。
このとき、他の諸市はみなペルシアの支配下にはいり、ペルシアは自分の意志のままにあやつれる者を、それらの市の支配者として立てた。
しかし、リュディアに援軍を出さなかったミレトスだけは、完全な独立を認められたという。
タレスはミレトス市に、リュディア側に味方することをいましめたが、彼自身は、クロイソス軍に参加したとも伝えられる。
クロイソス軍がキュロス軍を攻めるために、ハリュス川まで着いたとき、そこには橋がなかった。
クロイソス軍に加わっていたタレスは、くふうして運河をつくり、ハリュス川の水を半分ほかに流して川の水を浅くし、軍隊は川を渡ることができたヒヘロドトスは伝えている。
もっとも、この話を伝えているヘロドトス自身が、この話はあやしいといい、「それでは帰りはどうしたのだろうか」きっと「本当は橋があり、それを渡ったにちがいない」といっている。
リュディアがキュロス王に征服されたころにタレスは死んだらしい。