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『古代ヨーロッパ 世界の歴史2』社会思想社、1974年
8 ギリシア世界の拡大 ―アレクサンダー大王―
1 少年アレクサンダー
「栴檀(せんだん=香木)は双葉(ふたば)より芳(かん)ばし」という言葉があるが、少年アレクサンダーも、のちに「大王」とよばれるようになる素質を、少年時代からもう備えていたことを思わせるような話が、いくつも伝えられている。
そのなかでもいちばん有名なのは、「プケファラス」(「牛の頭をした馬」という意味)という荒馬の話だろう。
あるときテッサリア人のフィロニコスという馬売りが、マケドニア王宮に、ブケファラスという馬を売りに来た。
ところがこれが気の強い荒馬で、人が近づくと立ち上がって、だれもよせつけなかった。
王のフィリッポスは怒って、「こんな調教もされていない馬が買えるか。連れて帰れ!」と命じた。
すると王子のアレクサンダーは、馬のまわりを歩きながら、「乗れないのは下手で、臆病だからだ。こんな名馬を置いておけないなんて恥だ!」と何度もいった。
父王はこれをききとがめていった。
「年上の人たちのことをなんとかいうが、おまえのほうがずっと馬をよく扱えると思っているのか」。
アレクサンダーは「この馬なら他の人よりずっとうまく扱えます」と答えた。
「そんなことを軽々しくいうな。やれなかったらどうする気だ」
「わたしが馬の代を払いましょう」まわりで父王と王子の問答をきいていた人々は、どっと笑った。
馬の代は一三タレントで、たいへん高価だった。
しかしけっきょく馬の代金を睹金にして、アレクサンダーは乗ってみることになった。
彼は馬の手綱をとって、太陽のほうに向けた。馬をさっきからよく観察していた彼は、馬が自分の影におびえていることがわかったからだった。
そしてしばらく馬の手綱をとって歩かせていたが、馬がおちついたところを見て、馬にとび乗り、はじめは馬に逆らわずにおとなしくしていたが、馬がなれたところで、声をかけ、馬の腹を蹴ってかけさせた。
馬は彼の思うままにかけた。
父王をはじめ、人々は、ハラハラして見ていたが、王子が上手にブケファラスを乗りこなしたのを見て、「わっ!」とよろこびの声をあげた。
フィリッポスはよろこびのあまり涙まで流した。
馬からアレクサンダーが降りると、かけよって彼の頭に接吻していった。
「ああ、おまえは、おまえにふさわしい王国をさがすがよい。マケドニアにはおまえのいる場所がない」
睹に勝ったアレクサンダーは、父王にこの馬を買ってもらった。
そしてブケファラスは彼の愛馬となり、のちにアジアに遠征したときも、乗馬として連れて行った。
またあるとき父王が外国に行って不在だったときこ、ペルシアから使節がきたことがあった。
アレタサンダーは父王の代理をして、使節をもてなした。
そして彼は使節に、ペルシアの首都までの旅のようすや、道のり、ペルシア王の戦いぶり、ペルシア人の勇気や戦力などを質問した。
ペルシアの使節は驚いていった。
「まだ少年なのに、つまらない質問はしないで、こんなにしっかりしているのでは、王子はあの評判の高い父王フィリッポスより、たしかにもっと傑物になるにちがいない」
フィリッポスは、地方貴族たちが勢力を持っていたマケドニアの王権を強めて、強力な支配体制をうち立てた。
そして周囲の国々を、つぎつぎに平らげ、さらにギリシアにまで兵をのばした。
つぎつぎに勝利の報が、留守の王宮に伝わってきた。
人々はよろこびあったが、アレクサンダーだけは機嫌が良くなかった。
そして友人たちにいうのだった。
「父王がなんでもとってしまっては、わたしにはきみたちとする立派な仕事がなくなってしまうではないか」
こんな話がいくつも伝わっている。しかしそれらの話がみな本当の話だったとはいいきれない。
彼の誕生について、いろいろな神話的な伝説がつくられているように、これらの話のなかにも後人(こうじん)がつくった話もあるだろう。
けれども彼がのちにした仕事を見ても、彼はなかなかしっかりした判断力、明快な頭脳、すぐれた実行力などをもった良い素質にめぐまれた人であったことは確かである。
彼は良い素質にめぐまれていたうえに、良い先生にもめぐまれた。彼には立派な後見役や家庭教師たちがたくさんつけられたが、アリストテレスはそのなかでも、とくに立派な先生だった。
アリストテレスはマケドニアの南のカルキディケの東のほうにあるスタギラの町の生まれだった。
彼の父のニコマコスは、マケドニア王家に仕えた医者だった。
こういうふうに彼はマケドニア王家と関係が深かったので、王子の先生として招かれたのだった。
アリストテレスは、幼いころに父を失い、その後は、父の友人のプロクセノスに養育された。
十七歳になったときにアテネに行き、そこでプラトンのアカデメイアにはいって、二十年間も学んだ。
彼はプラトンに多くのことを学び、プラトンも彼の能力を認めたが、アリストテレスは師の批判もした。
そのためプラトンに「彼には手綱が必要だ」といわれたとも、「彼は仔馬が母馬を蹴とばすように、わたしを蹴とばす」といわれたとも伝えられる。
このためか、彼はプラトンの死後、小アジアに行った。
師をついでアカデメイアの学頭になれるつもりだったのになれず、がっかりしたためともいわれる。
その後マケドニアに招かれて、三年間アレクサンダーの先生をした。
彼はフィリフポスの死後、アテネに帰り、そこで「リュケイオン」という学校を開いた。
彼の研究は、あらゆる領域におよび、当時の学問を綜合、整理し、政治・経済・歴史・倫理・生物などあらゆることにわたって、百科全書的な著作を残し、後世の学問に貢献した。
そのためヨーロッパの学問は中世を通じて、みなアリストテレスの流れをくんだ。
こういう偉大な先生の教えをうけたアレクサンダーは、学問に対する愛と尊敬を深く植えつけられ、それは一生かわらなかった。
彼がのちにアジアに大遠征したときに、おおぜいの学者たちをいっしょに連れて行き、その地方の地誌やその他を調べさせたのも、アリストテレスの影響だったといわれる。
8 ギリシア世界の拡大 ―アレクサンダー大王―
1 少年アレクサンダー
「栴檀(せんだん=香木)は双葉(ふたば)より芳(かん)ばし」という言葉があるが、少年アレクサンダーも、のちに「大王」とよばれるようになる素質を、少年時代からもう備えていたことを思わせるような話が、いくつも伝えられている。
そのなかでもいちばん有名なのは、「プケファラス」(「牛の頭をした馬」という意味)という荒馬の話だろう。
あるときテッサリア人のフィロニコスという馬売りが、マケドニア王宮に、ブケファラスという馬を売りに来た。
ところがこれが気の強い荒馬で、人が近づくと立ち上がって、だれもよせつけなかった。
王のフィリッポスは怒って、「こんな調教もされていない馬が買えるか。連れて帰れ!」と命じた。
すると王子のアレクサンダーは、馬のまわりを歩きながら、「乗れないのは下手で、臆病だからだ。こんな名馬を置いておけないなんて恥だ!」と何度もいった。
父王はこれをききとがめていった。
「年上の人たちのことをなんとかいうが、おまえのほうがずっと馬をよく扱えると思っているのか」。
アレクサンダーは「この馬なら他の人よりずっとうまく扱えます」と答えた。
「そんなことを軽々しくいうな。やれなかったらどうする気だ」
「わたしが馬の代を払いましょう」まわりで父王と王子の問答をきいていた人々は、どっと笑った。
馬の代は一三タレントで、たいへん高価だった。
しかしけっきょく馬の代金を睹金にして、アレクサンダーは乗ってみることになった。
彼は馬の手綱をとって、太陽のほうに向けた。馬をさっきからよく観察していた彼は、馬が自分の影におびえていることがわかったからだった。
そしてしばらく馬の手綱をとって歩かせていたが、馬がおちついたところを見て、馬にとび乗り、はじめは馬に逆らわずにおとなしくしていたが、馬がなれたところで、声をかけ、馬の腹を蹴ってかけさせた。
馬は彼の思うままにかけた。
父王をはじめ、人々は、ハラハラして見ていたが、王子が上手にブケファラスを乗りこなしたのを見て、「わっ!」とよろこびの声をあげた。
フィリッポスはよろこびのあまり涙まで流した。
馬からアレクサンダーが降りると、かけよって彼の頭に接吻していった。
「ああ、おまえは、おまえにふさわしい王国をさがすがよい。マケドニアにはおまえのいる場所がない」
睹に勝ったアレクサンダーは、父王にこの馬を買ってもらった。
そしてブケファラスは彼の愛馬となり、のちにアジアに遠征したときも、乗馬として連れて行った。
またあるとき父王が外国に行って不在だったときこ、ペルシアから使節がきたことがあった。
アレタサンダーは父王の代理をして、使節をもてなした。
そして彼は使節に、ペルシアの首都までの旅のようすや、道のり、ペルシア王の戦いぶり、ペルシア人の勇気や戦力などを質問した。
ペルシアの使節は驚いていった。
「まだ少年なのに、つまらない質問はしないで、こんなにしっかりしているのでは、王子はあの評判の高い父王フィリッポスより、たしかにもっと傑物になるにちがいない」
フィリッポスは、地方貴族たちが勢力を持っていたマケドニアの王権を強めて、強力な支配体制をうち立てた。
そして周囲の国々を、つぎつぎに平らげ、さらにギリシアにまで兵をのばした。
つぎつぎに勝利の報が、留守の王宮に伝わってきた。
人々はよろこびあったが、アレクサンダーだけは機嫌が良くなかった。
そして友人たちにいうのだった。
「父王がなんでもとってしまっては、わたしにはきみたちとする立派な仕事がなくなってしまうではないか」
こんな話がいくつも伝わっている。しかしそれらの話がみな本当の話だったとはいいきれない。
彼の誕生について、いろいろな神話的な伝説がつくられているように、これらの話のなかにも後人(こうじん)がつくった話もあるだろう。
けれども彼がのちにした仕事を見ても、彼はなかなかしっかりした判断力、明快な頭脳、すぐれた実行力などをもった良い素質にめぐまれた人であったことは確かである。
彼は良い素質にめぐまれていたうえに、良い先生にもめぐまれた。彼には立派な後見役や家庭教師たちがたくさんつけられたが、アリストテレスはそのなかでも、とくに立派な先生だった。
アリストテレスはマケドニアの南のカルキディケの東のほうにあるスタギラの町の生まれだった。
彼の父のニコマコスは、マケドニア王家に仕えた医者だった。
こういうふうに彼はマケドニア王家と関係が深かったので、王子の先生として招かれたのだった。
アリストテレスは、幼いころに父を失い、その後は、父の友人のプロクセノスに養育された。
十七歳になったときにアテネに行き、そこでプラトンのアカデメイアにはいって、二十年間も学んだ。
彼はプラトンに多くのことを学び、プラトンも彼の能力を認めたが、アリストテレスは師の批判もした。
そのためプラトンに「彼には手綱が必要だ」といわれたとも、「彼は仔馬が母馬を蹴とばすように、わたしを蹴とばす」といわれたとも伝えられる。
このためか、彼はプラトンの死後、小アジアに行った。
師をついでアカデメイアの学頭になれるつもりだったのになれず、がっかりしたためともいわれる。
その後マケドニアに招かれて、三年間アレクサンダーの先生をした。
彼はフィリフポスの死後、アテネに帰り、そこで「リュケイオン」という学校を開いた。
彼の研究は、あらゆる領域におよび、当時の学問を綜合、整理し、政治・経済・歴史・倫理・生物などあらゆることにわたって、百科全書的な著作を残し、後世の学問に貢献した。
そのためヨーロッパの学問は中世を通じて、みなアリストテレスの流れをくんだ。
こういう偉大な先生の教えをうけたアレクサンダーは、学問に対する愛と尊敬を深く植えつけられ、それは一生かわらなかった。
彼がのちにアジアに大遠征したときに、おおぜいの学者たちをいっしょに連れて行き、その地方の地誌やその他を調べさせたのも、アリストテレスの影響だったといわれる。