『絶対主義の盛衰 世界の歴史9』社会思想社、1974年
8 フランス啓蒙思想――貴婦人たちのサロン
3 フェルネーの長老
筆の先だけではなく、ボルテールはガラス事件、シルバン事件などのように、実際に宗教上の偏見の犠牲のためにたたかった。
ツールーズの商人、カルバン主義の新教徒のガラス家で、一七六一年十月のある日、三十八歳の長男マルク・アントワーヌが首つり自殺をとげた。
ところが司法当局は、彼がカトリックに改宗しようとしたため、家族たちが共謀して殺したものと決めた。
そして六二年三月、父シャンは栲問ののち、車刑で生きながらからだをくだかれ、二時間も苦しんで絶命した。
これに対してボルテールは、「……もっとも啓蒙された世紀におけるもっとも恐るべき狂信、わたしが書く悲劇もこれほど悲劇的ではない」として、ガラスの名誉回復のために立つこととなった。
そして再審の結果、六五年、この目的が果たされたのである。
またガラス事件から三ヵ月たらずで、南仏のある都市でほぼ同じような事件が起こった。
測量技師で、やはり新教徒のピエール・ポール・シルバンの娘エリザペートは、ある神父にすすめられてカトリックの修道院にはいったが、信仰上の問題のためか、一七六二年一月、井戸へ入水自殺をとげた。
一家の者に殺人の嫌疑がかけられたが、彼らは捕われるまえにスイスへ逃亡したため、六四年欠席裁判で両親は死刑と判決された。
この事件に対してもボルテールは活躍し、七一年再審の結果、シルバン家の名誉が回復されたのである。
これよりさきに、一七五八年ごろ、彼はスイスとの国境に近いフェルネーに土地を求めた。
当局の追及に対して、いつでも国境をこえて逃げられる態勢をとる必要があったのだ。
そして彼は約二十年間フェルネーに住み、王者のような豪奢な生活をおくり、諸著作やおびただしい手紙を書きつつフランスのみならず、ヨーロッパ思想界に君臨した。
「フランスに二王あり。一つはベルサイユに住んで地上の王。一つはフェルネーにあって精神界の王。」
諸国の王侯、貴族、知識人から、この「フェルネーの長老」に書簡は絶えなかったし、また各地から「フェルネーもうで」をする人びともひきつづいた。
その邸宅には、つねに訪客のため食事の用意がしてあったといわれる。
一方、ボルテールは村の発展、村民の啓発につくすことも忘れず、フェルネーの村は繁栄する小都市にかわったという。
ボルテールはこれまで中央の当局をはばかり、パリをさけていたが、一七七四年ルイ十五世の死、ルイ十六世即位と世も改まった。
そこで七八年二月、彼はパリに帰り、さながら凱旋将軍のように迎えられた。
いささか誇張されているが、つぎのような言葉もある。
「一七七八年二月十日、ボルテールの都入りとともに大革命がはじまった。」
三月三十日、コメディー・フランセーズ座で、彼の悲劇『イレーヌ』が上演され、舞台にすえられたボルテールの像の頭に、月桂冠がおかれた。
列席したボルテールはあまりの歓迎に、うれしい悲鳴をあげたという。
「喜び死にをさせようとするのか。」
しかしこうした状態は八十四歳の身にこたえたとみえ、この七八年五月三十日、ボルテールは息をひきとった。
ボルテールは、哲学では経験論、宗教では理神論、政治上では立憲王政主義であり、貴族化した大ブルジョワの立場を代表していたといえよう。
そして彼自身、大ブルジョワであった。前述のように彼はたくみな投資や投機で産をなした。
ブルジョワとして、彼は享楽することにも貪欲であった。
この点において彼は「フランス十六、十七世紀をつらぬく快楽的な伝統の代表的な継承者」であり、そしてこの快楽主義は、彼の皮肉なペシミズムと表裏をなすものであった。
ボルテールはまた、他の多くの啓蒙思想家と同じように、けっして急進的であったわけではない。
彼はカトリック教会を攻撃したが、無神論には賛成せず、それは社会に有害であるとして、大衆のあいだに秩序をもたらすために、宗教の存在の必要性を重視していた。
「神がなければ、発明する必要がある」というわけである。
もしもフランス革命の時代まで生きていたならば、もっともこれに反対したのは、人一倍民衆を軽蔑していたボルテール自身であったかもしれない。