カトリック情報 Catholics in Japan

スマホからアクセスの方は、画面やや下までスクロールし、「カテゴリ」からコンテンツを読んで下さい。目次として機能します。

9-8-3 フェルネーの長老

2024-08-12 20:18:07 | 世界史

『絶対主義の盛衰 世界の歴史9』社会思想社、1974年
8 フランス啓蒙思想――貴婦人たちのサロン
3 フェルネーの長老

 筆の先だけではなく、ボルテールはガラス事件、シルバン事件などのように、実際に宗教上の偏見の犠牲のためにたたかった。
 ツールーズの商人、カルバン主義の新教徒のガラス家で、一七六一年十月のある日、三十八歳の長男マルク・アントワーヌが首つり自殺をとげた。
 ところが司法当局は、彼がカトリックに改宗しようとしたため、家族たちが共謀して殺したものと決めた。
 そして六二年三月、父シャンは栲問ののち、車刑で生きながらからだをくだかれ、二時間も苦しんで絶命した。
 これに対してボルテールは、「……もっとも啓蒙された世紀におけるもっとも恐るべき狂信、わたしが書く悲劇もこれほど悲劇的ではない」として、ガラスの名誉回復のために立つこととなった。
 そして再審の結果、六五年、この目的が果たされたのである。
 またガラス事件から三ヵ月たらずで、南仏のある都市でほぼ同じような事件が起こった。
 測量技師で、やはり新教徒のピエール・ポール・シルバンの娘エリザペートは、ある神父にすすめられてカトリックの修道院にはいったが、信仰上の問題のためか、一七六二年一月、井戸へ入水自殺をとげた。
 一家の者に殺人の嫌疑がかけられたが、彼らは捕われるまえにスイスへ逃亡したため、六四年欠席裁判で両親は死刑と判決された。
 この事件に対してもボルテールは活躍し、七一年再審の結果、シルバン家の名誉が回復されたのである。
 これよりさきに、一七五八年ごろ、彼はスイスとの国境に近いフェルネーに土地を求めた。
 当局の追及に対して、いつでも国境をこえて逃げられる態勢をとる必要があったのだ。
 そして彼は約二十年間フェルネーに住み、王者のような豪奢な生活をおくり、諸著作やおびただしい手紙を書きつつフランスのみならず、ヨーロッパ思想界に君臨した。
 「フランスに二王あり。一つはベルサイユに住んで地上の王。一つはフェルネーにあって精神界の王。」
 諸国の王侯、貴族、知識人から、この「フェルネーの長老」に書簡は絶えなかったし、また各地から「フェルネーもうで」をする人びともひきつづいた。
 その邸宅には、つねに訪客のため食事の用意がしてあったといわれる。
 一方、ボルテールは村の発展、村民の啓発につくすことも忘れず、フェルネーの村は繁栄する小都市にかわったという。
 ボルテールはこれまで中央の当局をはばかり、パリをさけていたが、一七七四年ルイ十五世の死、ルイ十六世即位と世も改まった。
 そこで七八年二月、彼はパリに帰り、さながら凱旋将軍のように迎えられた。
 いささか誇張されているが、つぎのような言葉もある。
 「一七七八年二月十日、ボルテールの都入りとともに大革命がはじまった。」
 三月三十日、コメディー・フランセーズ座で、彼の悲劇『イレーヌ』が上演され、舞台にすえられたボルテールの像の頭に、月桂冠がおかれた。
 列席したボルテールはあまりの歓迎に、うれしい悲鳴をあげたという。
 「喜び死にをさせようとするのか。」
 しかしこうした状態は八十四歳の身にこたえたとみえ、この七八年五月三十日、ボルテールは息をひきとった。
 ボルテールは、哲学では経験論、宗教では理神論、政治上では立憲王政主義であり、貴族化した大ブルジョワの立場を代表していたといえよう。
 そして彼自身、大ブルジョワであった。前述のように彼はたくみな投資や投機で産をなした。
 ブルジョワとして、彼は享楽することにも貪欲であった。
 この点において彼は「フランス十六、十七世紀をつらぬく快楽的な伝統の代表的な継承者」であり、そしてこの快楽主義は、彼の皮肉なペシミズムと表裏をなすものであった。
 ボルテールはまた、他の多くの啓蒙思想家と同じように、けっして急進的であったわけではない。
 彼はカトリック教会を攻撃したが、無神論には賛成せず、それは社会に有害であるとして、大衆のあいだに秩序をもたらすために、宗教の存在の必要性を重視していた。
 「神がなければ、発明する必要がある」というわけである。
 もしもフランス革命の時代まで生きていたならば、もっともこれに反対したのは、人一倍民衆を軽蔑していたボルテール自身であったかもしれない。





最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。