『アジア専制帝国 世界の歴史8』社会思想社、1974年
6 銀をめぐる波紋
3 銀納への道
「いま、天下の交易に通用しているものは、銅銭と銀のみ。銅銭は貧民の使用によし。」
「紙幣は、不便なること、はなはだしい。雨にぬれ、鼠にかじられればだめになる。
人は毎日紙幣をまもることに神経をすりへらし、紙幣の奴隷になるだけだ。
銀や銅銭は便利である。水火にあってもこわれるわけではないし、虫や鼠もかじれない。
人びとの手をわたりあるいてもその本質にかわりはない。」
明朝も後半になると、流通貨幣は、銀と銅銭というありさまであった。
紙幣がいかに人気のないものであったかは、紙幣と銀銭の得失をのべた文のなかに、よくしめされている。
明初に、金銀の使用を禁止し、紙幣の流通をはかったことは、つまりは時代の変化にそぐわないものであった。
貨幣制度の整備されていない時代にあっては実質的な価値がものをいう。
銀の流通は、その意味では必然的なものであったといえよう。
皮肉なことながら最後に流通したものは、銀塊であった。
それは決して鋳造貨幣ではない。このため一般には秤量貨幣とよんで区別する。
要するに、それは取引にあたって、適当に切り、重さをはかって、商品と引きかえに渡すにすぎない。
一種の物物交換のようなものである。
もともと銀は、早くから民間の取引に使用されていた。
商業がさかんになり、大量の商品が売買されるようになると、取引のために持ちあるく貨幣の額も大きくなる。
その場合、価値の高い金銀が、銅銭より便利であることは、いうまでもない。
また紙幣が発明されるのも、必然的なことである。
その場合、金銀は、それ自体が価値をしめすが、紙幣は、その裏付けがなければ不安をまねく。
通貨に不安があらわれたとき、金銀などの貴金属をもとめて、狂奔する人びとの姿は昔も今もかわらないといえよう。
元朝が金銀の使用を禁じ、明朝もまたこれを禁じた理由は、いろいろある。
それはともかく、禁ずるということは、それが流通していることであり、奨励するということは、それが流通していないことを意味する場合がすくなくない。
明代でも銀は商業経済の中心地や海港では、禁令にかかわらず通用していた。
おもしろいことに、金銀の使用を禁止した洪武帝の時代に、折納銀といって、税を銀で代納している記録がみえる。
規定の現物で納めることができなかったためとか、禁止している金銀を国家に吸収する手段の一つとか、学者はいろいろに解釈する。
いずれにしても記録が正しければ、事実といわざるをえない。
金銀の使用禁止と矛盾すると思われるような記録は、まだある。
銅銭の偽造を発見通告した者には、銀二百五十両を賞するということも、その一例である。
民間の使用を禁止したものを、賞としてあたえる。
これでは、金銀の民間からの回収とも矛盾してくる。そう思う人もすくなくないであろう。
金銀を貨幣として使用することを禁止する。
これが禁令の基本的立場のようである。
要するに貨幣として代用してはならないのである。
金銀や布帛(ふはく=織物)は貨幣ではない。
珍重される財宝であったというのが、真実に近いのではなかろうか。
それはあくまでも高貴な品物の部類にはいるものであり、貨幣ではなかった。
はじめは、その限りでの代納品であり、賞としてあたえる品、つまり賞品であったのではないか。
こうした明初の立場は、やがてくずれ去った。
鈔(紙幣)の価値がさがり、銅銭よりも軽視されるようになったのである。
しかも銅銭は不足し、かつ紙幣を流通させようとする政策のため、その使用をも禁止するにいたっては、もはや流通貨幣はなきにひとしくなる。
裏付けのない紙幣はもはや一枚の印刷した紙片にすぎない。
やっきになって政府が奨励しても、通用しないのは当然といえよう。
経済は発達し、商取引はさかんになる。
しかし、信頼できる貨幣はない。銀が貨幣がわりに通用するのも、当然といえよう。
商業都市や海港都市の繁栄する経済の中心地帯から、銀は貨幣として流通しはじめたものである。
こうなると、税を銀で代納する傾向がしだいにおこってくる。
人びとは銀を貨幣がわりに珍重し、税も銀で代納するとなれば、もはや銀は通貨である。
飽和状態に達した貯蔵米よりも、銀めほうが役に立つ。
こうした事情から、ついに税を銀で納めることが制度化される。
すべての税目を銀で納める一条鞭法という税制は、そこに生まれた。
万暦帝初期の政治家であった張居正は、これを全国的にすすめようとした。
農民は銭が便利であったにもかかわらず。