『絶対主義の盛衰 世界の歴史9』社会思想社、1974年
5 ルイ十四世が造ったベルサイユ宮殿の盛衰
5 「スカロンの寡婦」
一六七九年、モンテスパン候妃が見いだした新しいライバルは、前述のマリー・アンジェリック・ド・フォンタンジュ(一六六一~八一)であった。
金髪で十八歳のこの小娘に対して、モンテスパンは嫉妬にかられ、ルイの面前で荒れ狂ったらしい。
のちに王は苦笑いしていった。「二人の女性のあいだよりも、ヨーロッパに平和をつくるほうがやさしい。」
女の戦いはモンテスパン夫人の勝利であった。
フォンタンジュは一人の子供をうんだのち、ポール・ロワイヤル修道院へひきこもった。
しかしモンテスパン夫人の勝利は長つづきしなかった。ルイ十四世が年とともに、熱情的な寵妃に飽満の情をいだきはじめたころ、彼女のいかがわしい秘密がはっきりしでしまった。
当時、上流社会に毒殺事件が多く、一六八〇年、当局は容疑者の逮捕にふみきった。
ところがこれに関連して錬金術師、女占い師、魔術師などのうたがわしい組織が明るみにでてきて、モンテスバン夫人も関係があり、ラ・バリエールを呪っていたようなことがわかってきた。
たとえば、モンテスバン夫人はあやしげな祈祷師のもとへ通い、秘密の「黒いミサ」に出席し、捨て子や幼児をいけにえにささげて、願いごとがかなうように試みたりしたのである。
さすがに当局の追及はうちきられ、王も寛大ではあったが、彼女に対する情愛は急速に衰えていった。
しかもモンテスバン夫人に代わるべき女性が、すでにいたのである。
その女性、フランソワーズ・ドービニェ(一六三五~一七一九)は、アンリ四世の友人で、新教徒の詩人を祖父にもっていたが、父母にはめぐまれず、孤児として残され、一六五二年、十六歳のとき、四十歳をこえた詩人スカロン(一六一〇~六○)に見そめられて結婚した。
スカロンは関節炎で不具、彼女は名ばかりの妻であった。
しかし夫のサロンで、彼女は十分な教養を身につけ、才知豊かな女性に成長していった。八年ほどの生活をへて、彼女はスカロンと死別した。
その後、夫に借財を残され、貧しさにあえいでいた三十なかばに近いスカロン未亡人に目をつけ、自分とルイ十四世とのあいだに生まれた子女の養育係としたのは、ほかならぬモンテスパン夫人である。
王は最初は「社交界の才女」をきらったという。
彼女はいつも黒衣をまとい、必要なとき以外は金や銀を身につけなかったので、変わり者と思われていたが、子守役としては申し分なかった。
敬虔(けいけん)で思慮ぶかい彼女は、子供たちが母のルーズな生活にまきこまれないように努めたし、また彼らが病気のとき――母は賭事(かけごと)などにふけっていたが――看護に専念するのも彼女であった。
王女が一人死亡したときには、父のルイは子供の死よりも、お守りの悲しみのほうに心をうごかされたという。
そしてルイ十四世の心はモンテスパンから離れるにつれて、この「スカロンの寡婦(かふ)」にうつっていった。
一六七四年、王は彼女の労に報いるためにマントノンの領地をあたえ、これより彼女はマントノン夫人(女侯爵)とよばれるにいたった。
一六八〇年の「毒物事件」にかんしてルイはモンテスパンをとがめなかったものの、マントノン夫人の地味で堅実な性格にひかれていった。
しかも彼女は王の誘いに応ぜず、むしろ忘れられている王妃に愛情をそそぐことを彼にすすめた(モンテスパンはその後、修道院にはいった)。
王妃はマントノン夫人に対する感謝のうちに、生涯の最後の三年ばかりを幸福にすごした。
そしてまだ四十歳なかばの王妃は、一六八三年七月末マントノン夫人の腕に抱かれて病没した。
それから、一年たらずのあいだに――日付については、いろいろ臆測はあるが――おそらくは一六八四年六月ごろ、ルイ十四世とマントノン夫人はベルサイユ宮殿礼拝堂で、ひそかに結婚した。
王は四十六歳にちかく、夫人は三歳年長であった。
この年齢からみても、王をとりこにしたものが、若さや美しさではなかったことが明らかであろう。
夫人は正式の「王妃」となるには身分が違いすぎるので、「妻」にとどまったが、実質的には王妃に対する慣例が適用される場合もあったらしい。
そしてこの結婚後、ルイは情事をまったくつつしみ、いわば家庭生活に専念するのである。
マントノン夫人は外見は端麗で威厳にみち、王が日ごろ、「堅実なお方」とよんだというところから、強くてたのもしい性格と考えられがちであるが、じつは陰うつで、ほかから影響されやすい気分屋だったという説もある。
王に対しても、政治や宗教問題についてある程度の力をもっていたとも、あるいは一般的なことはともかく、個々の問題の決定についてはまったく関係がなかったともいわれる。
なお夫人は一六八六年、サン・シールに貧しい貴族の子女のための学校をもうけ、王の死(一七一五)後はここに引退した。