『文芸復興の時代 世界の歴史7』社会思想社、1974年
7 マルティン・ルターの場合
1 九十五ヵ条
一五一七年十月三十一日、ビッテンペルク大学の教会の扉にはりだされた「九十五ヵ条」が、いわゆる「宗教改革」のはじまりとされる。
マルティン・ルター博士という三十四歳の教授であり、僧侶でもあるひとの書いたこの一枚の紙は、それまで潜在していたヨーロッパの宗教的・政治的・経済的な難問題の焦点のすべてを集中したような高熱を発し、とてつもない連鎖反応をおこした。
現代の日本人にとって、信仰の問題はわかりにくい。
親鸞上人はルターより三百年も早く僧侶の結婚をみとめた。
だから宗教改革を理解するのに、宗教をあまり扱わないで、むしろ政治や経済から説明するのが、ひとまず高級で知的な方法と考えられた。
しかしとにかく宗教改革は「宗教」の改革にはじまったはずである。
その起爆剤になった「九十五ヵ条」を最初に調べてみよう。
『ビッテッペルク大学正教授マルティン・ルターの監督のもとに、つぎの諸条について討論がある。
主イエス・キリストの名によって、アーメン
第一条 われらの主であり師であるイエス・キリストは「なんじら悔い改めよ……(マタイ伝第四章第十七節)」といわれる。
キリストはこの言葉によって、キリスト教徒の生涯が、すべて悔い改めることであるよう欲しておられる。
第二条 悔い改めを教会の手続き、つまり僧侶の指導による「告解(ざんげ)」とか「断食」「寄付」「祈り」「巡礼」のような、つぐないの行為の意味にとってはならない。』
このようにはじまる問題が第九十五条まであり、神学者たちに討論をやりましょうと呼びかける習慣に従ったものである。
学僧たちの内輪の討論だから、ラテン語で書かれており、だれにでも読めるというものではなかった。
第二条のいろいろな手続きは、ローマ・カトリック教会の規定にあるもので、まとめて「贖宥(しょくゆう=信者の罪を教会が免除すること)」と呼ばれ、十字軍戦士や、大航海に出発する船員などにもみとめられていた。
しかしそれと並行して、寄付さえすれば罪がゆるされるという要素が、教皇庁財政の必要からふくれあがり、いわゆる「免罪符」(贖宥状)というお札(ふだ)が、迷信深く近所づきあいを大切にする民衆に販売されるにいたって、弊害が生じていた。弊害として論じられ、行き過ぎが批判されることはけっして珍しくなかった。
十四世紀中ごろのボッカチオの『デカメロン』に、早くもその偽善の暴露が行なわれている。
ルターが問題にしたのはそういう弊害以外の、教義に関することが含まれていた。
『第四条 自分自身を憎むことがつづくかぎり、すなわち天国にはいるまで罰がつづく。』
つまり、あっさり罪が許されるという誘惑は、自分を愛し、罰を憎む傾向を生むではないか。
それでは悔い改めも何もあったものではないとルターは言ったのである。
この厳格主義はむしろ修道院のものであり、陽気な民衆のものではない。
こういうすべり出しで、問題を多くの方向に拡大させた。
『第二十条 教皇が「すべての罰をゆるす」と宣言するならば、それはほんとうの「すべて」ではなく、たんに教皇自身が科した罰をゆるすというだけのことである。
第二十一条 だから教皇の免罪符で、あらゆる罰が免除されるという免罪符売りの説教者はみな間違っている。
第二十七条 貨幣がさいせん箱のなかで音をたてるやいなや、魂が天国に行くというならば、それは人間の誘惑でしかない。
第三十九条 免罪符のすばらしい価値と、ほんとうの悔い改めとを、同時に民衆にわかるように説くことは、どんなに学識のある神学者にとっても困難である。』
贖宥(しょくゆう)の、したがって免罪符の教理的な根拠は、ローマ教皇のもとに原始キリスト教以来の高僧たちの美徳が蓄積されており、その切り売りが可能であるということであった。
売り上げはたとえばルネサンス的教皇による聖ピエトロ寺院の建築などに用いられた。
しかし売り式げ増加の必要上、美徳と交換可能になった罪や罰の範囲は、「親殺し」にまでエスカレートした。
第二十七条はとくに有名で、具体的である。
この説教者は、テッツェル(一四六五~一五一九)というドメニコ修道会の僧侶であった。
『第四十五条 困っている人を援助しないで、免罪符を買うという考えは、教皇から罪をゆるされるのではなく、神の怒りを買うものだということをキリスト教徒に教えるべきである。
第四十六条 金持ちでない者には、家族のために蓄えをつくるよう、免罪符のために金を浪費しないよう教えるべきである。
第四十八条 教皇が免罪符の発売をゆるすとき、教皇は金よりも、まじめな教皇のための祈りをしているのだということは、教えるべきである。
第八十六条 教皇はこんにち世界最大の金持ちよりも富んでいる。
すくなくともなぜ聖ピエトロ寺院を建てるのに、貧しい信者の金を使わないで、自分の金を使うようにしないのか。
第八十九条 教皇は免罪符によって人の魂を救うのであり、金を要求するのでないとするならば、以前に発行された免罪符を、なぜこんどの新免罪符発行にあたり無効としたのか。』
これらの問題は人間としての教皇レオ十世への批判を、はっきり示している。
十五世紀前半に、分裂していたローマ・カトリック教会を統一するため開かれた、コンスタンツおよびバーゼルの公会議があった。
そこでは「教皇至上主義」と「公会議至上主義」の争いがあり、やっとのことで、「教皇至上主義」が確認されていた。
その底流が残っていたことを考慮しないと、ルターがこんな問題を出した不用心さは理解できない。
テッツェルの所属するドメニコ修道会は教皇至上主義であり、ルターの所属するアウグスティヌス修道会は一種の革新派であった。
教皇をこの程度に非難してもだいじょうぶだというルターの安心感こそは、ローマ・カトリック教会の宗教的空洞化、いわゆる腐敗、堕落の証拠であった。
『第九十二条 キリスト教徒にむかって、心安がれと叫ぶ予言者はすべて立ち去れ。
そこに平安はない。
第九十三条 しかしキリスト教徒にむかって、十字架と叫ぶ予言者に祝福あれ。
そこに十字架はないのである。』
これはルターの苦行僧的な信仰告白である。
そのかぎりで「九十五ヵ条」は、予定どおり学問的な討論として取り扱われ、そのままに小さな学僧のサークルの行事として終わる可能性があったわけなのであろうか。
その後の経過からみてそうは思えない。
巨大な事業の中心におかれる人物に固有の、どこかまのぬけた本質的な不用心さというものを考えさせるのが、この「九十五ヵ条」なのである。
ルターはこれを本気で、純粋な神学上の討論と思っていたらしい。
テッツェルや教皇を非難してはいるか、それが目的ではなく、信仰に関するまじめな討論こそが目的であった。
おそらく第三十九条にあるように、信者の告解を聴くうちに免罪符を説明する必要を感じ、周囲への考慮をあまりしないで、思いつくままに九十五ヵ条を書いて発表したらしい。
それがルターの自已に対するきびしさだったというのはたやすい。
しかしルターはじつは成功した職業的宗教家として、その習慣的な生活の温室のなかにいた。
九十五ヵ条の発表によって、ルターの温室の壁は破られ、あたたかい風や、冷たい風がはげしく吹きこんでくることになる。
あたたかい風はルターの説に対する、ドイツの生活に根ざした熱狂的な支持であった。
冷たい風は翌一五一八年から、しだいに強くローマから吹きはじめる。
結果論的にいうと、この九十五ヵ条のなかには、宗教改革の「宗教」に関する変化の動機になる要素がすでにふくまれている。
宗教改革がもたらした影響を列挙してみると、「聖書にもとづく個人的信仰の強調」「教会財産の縮小」「僧侶の還俗と結婚」「儀式・祭日の簡素化」「宗教行事の家庭化と個人主義化」「聖書の民族語訳」「僧侶の職業性の後退――俗人司祭主義」「政治と宗教の分離」といったことである。
しかしルターは九十五ヵ条執筆中、こういう見とおしをはっきり持ってはいなかった。
一人の中年の男がある程度の社会的地位にたどりついて、複数の道からの誘惑を受けながら、自分の思想を新しく形成してゆくというのはたいへんなことである。
千日や二千日かかっても不思議はない。
そしてさしあたり千日ほどの余裕がルターに与えられたというのが、ドイツ宗教改革史の不思議さであり、個性的なところなのである。
そこで一五一九年、神聖ローマ皇帝マクシミリアン一世の死と、それにつづくスペイン王カルロス一世の皇帝(カール五世)就任、そのドイツ赴任がおくれたことを軸とした、ドイツの政治的事情に話題をうつそう。