『絶対主義の盛衰 世界の歴史9』社会思想社、1974年
2 ブルボン王朝余話、フランスの大政治家リシュリュー
2 三十年戦争はじまる
ここでリシュリューのフランスが介入した三十年戦争についてふれておこう。
神聖ローマ(ドイツ)皇帝をいただいてはいるが、およそ統一からは縁遠く、諸侯や自由都市など三百数十の国々からなる十七世紀ドイツでは、宗教改革以後キリスト教がカトリック、プロテスタントのルター派、カルバン派にわかれて、たがいに対立していた。
一五五五年のアウクスブルク宗教和議は、諸侯や諸都市に、カトリックおよびルター主義信仰の自由をゆるした(カルバン主義はのぞかれた)。
しかしこれは個人にみとめたのではなく、「支配者の宗教、その支配地に行なわれる」の原則で、諸侯が領民の宗教を決定する権利をもったにすぎず、したがってドイツの宗教問題は根本的解決をみせていなかった。
この宗教上の対立と諸侯たちの政治上、経済上の勢力争いがからんで、事態はいっそう深刻になっており、とかくにカトリックの皇帝とプロテスタントの諸侯とはそうであった。
そして一六○八年、プロテスタント二派の諸侯は協力して「ユニオン(連合)」をつくり、翌年、カトリック諸侯は「リーグ(同盟)」を組織した。
こうするうちに一六一八年五月二十三日、ベーメン(ボヘミア、いまのチェコスロバキアの一部)の首都プラハの王宮前に、千人をこえる武装したプロテスタントたちがおしかけた。
ベーメンはハブスブルク家の皇帝マティアス(在位一六一二~一九)が支配している地方であり、プロテスタント勢力が強かったのみならず、人口の大部分はチェック人で、ドイツ人の統治に対する民族的反感もはげしかった。
しかもプロテスタントたちが皇帝マティアスに請願書を提出して、弾圧政策に抗議したところ、その返書が威嚇的であったのみならず、つぎのようにうわさされたからである。
「弾圧の急先鋒でにくたらしい、あのプラハの二名の代官めが、皇帝の返書を起草したのだ。」
そして皇帝の代官たちの応待の態度に怒ったプロテスタントたちは、有無をいわせず、彼らを窓のところへひきずってゆき、およそ十八メートル下の城の堀をめがけてつき落とした。
ついでに、彼らの手先であった書記をも、窓から投げだした。
三人とも負傷しながらも、奇蹟的に一命をとりとめたことには、だれもが少なからずおどろいた。
しかしこうしためすらしい処刑法については、この地方の習慣であるとして、なんら怪しまれなかった。
ともかくこんな乱暴な刑が皇帝の代官に加えられた以上、プロテスタントたちは皇帝を中心とするカトリック勢力と対決するよりほかはなかった。
「ユニオン」と「リーグ」とのあいだに、戦いがはじまることとなった。
一六一九年、ベーメンの王はフェルディナント(ハブスブルグ家)となり、また彼はフェルディナント二世(在位一六一九~三七)として皇帝の地位についた。
そこでベーメンのプロテスタントたちは、フェルディナントを王位から追い、カルバン派のファルツ伯フリードリヒを王にむかえた。
しかし一六二〇年、ディリー(一五五九~一六三二)がひきいる皇帝軍はベーメンをおそい、フリードリヒはじめプロテスタント勢力は敗走した。
その他の地域もカトリックの勝利となり、フリードリヒはわずか一冬のベーメン王にすぎなかった。
このため彼は、しばしば「ビンターケーニヒ(冬王)」とよばれる。
プロテスタントのあいつぐ敗北に驚いたイギリスは、デンマーク(いずれもプロテスタント国)に資金の提供を約束し――王ジェームズ一世と議会との紛争のため、実現しなかったが―― 一六二三年、デンマーク王クリスティアン四世(在位一五八八~一六四八)は、北ドイツに対するかねてからの野望を達しようと、ドイツに進撃する。
リシュリューもまた、この王を支援することによって、三十年戦争に対する最初の干渉をこころみる。
デンマーク軍の出現に脅威(きょうい)を感じた皇帝が、一六二五年、起用したのはバレンシュタイン(一五八三~一六三四)である。
ベーメンの田舎貴族の家に生まれたバレンシュタインは、家庭はプロテスタントであったが、イタリア旅行をきっかけにカトリックに改宗し、富裕な老未亡人などとの二度の結婚によって富をえた。
妙なことに、彼は天文学や占星術に没頭し、これによって自分の行動を決定したりした。
一方、彼は計算が得意で、経営の才があった。
そして戦争が、このような才能を必要とする時代となっていた。
常備軍を維持するためには莫大な費用を要するが、バレンシュタインはこれをすべて現地での徴発によって、つまり民衆の直接負担でまかなうことにした。
戦争を有利なビジネスとわりきった彼こそ、最後で最大の傭兵隊長であった。
登用されたバレンシュタインはまず自分の金て軍を編成し、ディリーの軍の活躍とあいまって、デンマークの王軍を破り、皇帝の期待にこたえた。
一六二九年、和議が成立し、クリスティアン四世はドイツへの干渉から退くにいたった。敗因の一つはイギリスから約束の金がこず、兵士の給料が十分に払えなかったためともいわれる。
こうしてバレンシュタインの名声は全ドイツにひびきわたる。
しかし彼の軍隊が敵味方をとわず行なった掠奪的な徴発は、新旧両諸侯の反感をつよめた。
同時に彼らは、バレンシュタインの軍事力が皇帝のもとに、ドイツに政治的統一をもたらすことをきらった。
そこで諸侯は、皇帝にバレンシュタイン罷免(ひめん)をつよく要求する。
その背後には、リシュリューがいたといわれる。一六〇三年、皇帝フェルディナント二世は圧力に屈した。
偉丈夫、けいけいたる眼光を輝かせるビレンシュタインは、六つの城門をそなえたプラハの大宮殿で、日常の食卓にも山海の珍味をならべて、豪勢な生活をおくりつつ、ときのいたるのを待っていた。
スウェーデン王、グスタフ二世アドルフ(在位一六一一~二二)の軍が、ドイツに上陸していたからである……。