『東洋の古典文明 世界の歴史3』社会思想社、1974年
9 富国と強兵
7 隗(かい)より始めよ
燕の都は薊(けい)にあった。いまの北京(ペキン)の地である。しきりに東方に対して領地をひらき、遼東の地方まで平定したが、西には趙があり、南は斉に接して、さほど国力はふるわなかった。
しかし昭王が即位するにおよんで(前一二一)、にわかに勢力を増大する。昭王は身をひくくし、おくりものを重くして、賢者を招こうとつとめた。
ときに郭隗(かくかい)という賢者があり、これに適任の者をさがしてほしい、と頼んだ。すると隗はいった。
「王、かならず士を致さんと欲せば、まず隗(かい)より始めよ。いわんや隗より賢なる者、あに千里を遠しとせんや」――あの郭隗でさえも、あれほどの処遇をうけるのだ、まして自分ならば、というわけで、隗(かい)より賢なる者たちは、千里の道をも遠しとせずに集まってまいりましょう。
そこで昭王は、隗のために宮殿をきずき、師としてうやまった。このことを知ると、天下の賢者が、あらそって燕におもむいた。その一人に、名将の楽毅(がくき)があった。
ときに斉の湣(びん)王も、しきりに国勢の発展をはかっている。魏を攻め、楚を改め、ついで韓・魏とむすんで、秦を討った。さらに楚・魏とむすんで宋をほろぼした。
宋は、殷の子孫が封ぜられた国であったが、ここにおいて滅亡する。その領土は、斉・楚・魏に分割された(前二八六)。
こうして斉は、いよいよ強大となる。
ついに湣(びん)王は、周の王室をたおして、みずから天子になろうとの野望をいだくにいたった。
ここにおよんで、他の六国が連合した。ともかく、斉に対して兵をだした。
その連合軍を、燕の楽毅(がくき)がひきいたのである(前二八四)。
楽毅は、斉の都の臨惱(りんし)を占領し、ことごとく斉の祭器や財宝をうばって、燕におくった。
湣(びん)王は衛に逃げ、魯にうつり、あちこち転々としたあげく、殺されてしまった。
楽毅は斉の国の攻略をつづけ、七十余城をほふって、これまた燕の領域にくわえた。
しかし斉への戦勝から六年をへて、昭王は死んだ(前二七九)。
ついで立った恵王は、かねてから楽毅と仲がわるかった。これを斉が利用した。
スパイを燕におくりこみ、楽毅は斉王たらんとの野心がある、と言いふらさせた。
これをきいて恵王は、楽毅に帰還を命じた。
楽毅は、かえれば殺されるであろうと考え、趙に逃げた。趙では厚く遇した。ついに楽毅は趙で死んだ。
いっぼう斉では、計略が図にあたったので、兵をおこして燕を攻めた。
楽毅のいない燕軍は、つぎつぎに敗れた。たちまちにして斉は、さきに奪われた国土を回復した。
燕の隆勢も、昭王の一代でおわってしまったわけである。
この後は、国力ふるわず、やがて西方から秦の力がせまってくると、太子の丹は人質となって、秦へおもむかねばならなかった。
9 富国と強兵
7 隗(かい)より始めよ
燕の都は薊(けい)にあった。いまの北京(ペキン)の地である。しきりに東方に対して領地をひらき、遼東の地方まで平定したが、西には趙があり、南は斉に接して、さほど国力はふるわなかった。
しかし昭王が即位するにおよんで(前一二一)、にわかに勢力を増大する。昭王は身をひくくし、おくりものを重くして、賢者を招こうとつとめた。
ときに郭隗(かくかい)という賢者があり、これに適任の者をさがしてほしい、と頼んだ。すると隗はいった。
「王、かならず士を致さんと欲せば、まず隗(かい)より始めよ。いわんや隗より賢なる者、あに千里を遠しとせんや」――あの郭隗でさえも、あれほどの処遇をうけるのだ、まして自分ならば、というわけで、隗(かい)より賢なる者たちは、千里の道をも遠しとせずに集まってまいりましょう。
そこで昭王は、隗のために宮殿をきずき、師としてうやまった。このことを知ると、天下の賢者が、あらそって燕におもむいた。その一人に、名将の楽毅(がくき)があった。
ときに斉の湣(びん)王も、しきりに国勢の発展をはかっている。魏を攻め、楚を改め、ついで韓・魏とむすんで、秦を討った。さらに楚・魏とむすんで宋をほろぼした。
宋は、殷の子孫が封ぜられた国であったが、ここにおいて滅亡する。その領土は、斉・楚・魏に分割された(前二八六)。
こうして斉は、いよいよ強大となる。
ついに湣(びん)王は、周の王室をたおして、みずから天子になろうとの野望をいだくにいたった。
ここにおよんで、他の六国が連合した。ともかく、斉に対して兵をだした。
その連合軍を、燕の楽毅(がくき)がひきいたのである(前二八四)。
楽毅は、斉の都の臨惱(りんし)を占領し、ことごとく斉の祭器や財宝をうばって、燕におくった。
湣(びん)王は衛に逃げ、魯にうつり、あちこち転々としたあげく、殺されてしまった。
楽毅は斉の国の攻略をつづけ、七十余城をほふって、これまた燕の領域にくわえた。
しかし斉への戦勝から六年をへて、昭王は死んだ(前二七九)。
ついで立った恵王は、かねてから楽毅と仲がわるかった。これを斉が利用した。
スパイを燕におくりこみ、楽毅は斉王たらんとの野心がある、と言いふらさせた。
これをきいて恵王は、楽毅に帰還を命じた。
楽毅は、かえれば殺されるであろうと考え、趙に逃げた。趙では厚く遇した。ついに楽毅は趙で死んだ。
いっぼう斉では、計略が図にあたったので、兵をおこして燕を攻めた。
楽毅のいない燕軍は、つぎつぎに敗れた。たちまちにして斉は、さきに奪われた国土を回復した。
燕の隆勢も、昭王の一代でおわってしまったわけである。
この後は、国力ふるわず、やがて西方から秦の力がせまってくると、太子の丹は人質となって、秦へおもむかねばならなかった。