<飛行図>
これが唯一のプライベイトなアメリカ行きだった。ハワイには、たくさん日本人が行くようだが、ハワイ諸島がアメリカの州であるだけで、アメリカとは言えない気がする。何十回もアメリカ大陸には渡ったが、ハワイには寄ったことはない。余談です。
この時は自費の旅だったから安い航空券を探したら、当時は日本ではなじみの薄かったアメリカンのサン・ノゼへのチケットが取れた。目的は、カリフォルニア州とネバダ州に跨るタホ湖での2週間のインターナショナル・TA・ワークショップへ参加するためだった。その前後に、1週間ずつサンフランシスコ滞在を加えたから、合計4週間弱の旅になった。
<タホ湖 Google>
これはIBMが、勤続25年の社員にサバティカルとして、1か月の有給休暇と学費を負担してくれるというチャンスに恵まれたからだった。僕にとっては、早期退職して、次の仕事、カウンセラーに就くための必須のワークショップだった。
アメリカンはなぜか、成田~サン・ノゼしかルートを持っていなかった。タホ湖に行くには、サンフランシスコ空港が便利で、サン・ノゼ空港は決してそうではなかった。サンフランシスコ空港からは、タホ湖までの小さなプロペラ機へ乗れるのだが、なぜかサン・ノゼだった。アメリカンとしてのバス・サービスはなく、一般のバスでサンフランシスコ空港まで戻るしかなかった。そこから、更にサンフランシスコ市内へのリモの利用も必要だった。
<有名なケーブルカー>
ビジネスでは、いつものサンフランシスコのヒルトンとかを使えるのだが、ホテル代も自費だから、場末のホテルを探した。普通はあまり観光客のいかない、サンフランシスコ市役所の近くに安宿をとった。そこで、ジェットラグを消して、普通の調子に戻して、タホ湖に入ることにした。
サンフランシスコ空港の片隅から、30名くらいの客を乗せる小さなプロペラ機で、シェラネヴァダ山脈に囲まれたタホ湖に向かった。
<アメリカンのプロペラ機で着いたタホ湖空港>
タホ湖の飛行場は、海抜1900mだから、パイロットに対する注意書きが面白かった。「空気が薄いから、離陸にはエンジンの出力を最大に!」とあった。確かに、空気が薄いと抵抗が減り、上昇力が落ちる。納得。
世界中から集まった20名程のメンバーが、“Born to Win”で、世界庁中に影響を与えてたミュリエル・ジェームズ博士の主催するTAワークショップに参加した。
<ミュリエルの著書“Born to Win”:TAの名著>
コンドミニアムに、5名程の疑似家族が何組か、別々に泊まり込んだ。そして全員での講義やフィールドワーク以外は、24時間、その家族と過ごすことになっていた。これには、ミュリエルの意図があった。24時間、人は仮面をつけてはいられない。素(す)の自分が、他のメンバーに見えてしまうのだ。それが狙いだった。
<タホ湖の林の中のコンド>
その一軒のコンドの中では、自然と役割ができあがる。親父、お袋、長男、長女、二男、二女などと、自分と他の関係ができてくるのだ。それが、ミュリエルの狙いの一つだった。自分の性格が、国際的なグループでも自然に浮き上がるのだ。僕の場合は、ネブラスカから来たジュディという妹と、スペインのイグナチオという弟ができあがった。
<ジュディとイグナチオ>
ワークショップには、TAの講義や論文解説などや、ロールプレイなどもあるが、根っこには自分をより深く知るという目的があり、僕自身の行動を常に客観的に見てくれるメンバーが必要だったのだ。周りのみんなが、本人の知らない自分をフィードバックしてくれ、結果として自分自身を新たに発見するというメカニズムだ。ジョハリの4っの窓を知っていれば、意味が分かると思う。
<美しいタホ湖>
一番印象的だったのは、「人を信頼しないとプールに沈む」というプーリングと言うフィールドワークだった。二人がペアになって、一人がプールに上向きに寝る。もう一人が、それを補助するというワークだった。浮く人が、サポートをする人を信頼できないでいると、体のどこかに力が入って、本来的には水に浮く人間の体が浮くことが出来なくて沈んでいくのだ。僕は、簡単に浮けたが、イグナチオは、何度か沈んだ。ミュリエルの指示があって、何度目かに、僕の前で浮いた。感激だった、
<プーリングで浮く僕とイグナチオ それを見守るミュリエル>
楽しいワークショップの2週間はあっという間に経っていた。僕自身の発見は、僕の中には、いつも母を探している小さな子供のキャラクターが存在するが、いつもそれを隠しているという心理的な画だった。この小さな子を解放してあげることが、僕の人格を修正できるとミュリエルのお陰で知った。
スペイン・サラゴサの歯科医、イグナチオとは、その後もずっと付き合いがあったが、6年前に、交通事故で突然死するまで友達だった。何度もスペインへ来たらと言ってくれたが、それができぬうちにくたばった。
ミュリエルとはずっと交流が続き、日本に来た時には必ず会っていたし、カルフォルニアまで電話して声も聴いていた。クリスマスカードも束になって残っているが、去年の1月、102歳で天国に召された。僕は心の母を失ったのだ。
<100歳のミュリエル>
タホ湖の帰りは、サンフランシスコでイグナチオと遊び、その後一人で、モントレー、カーメルを車で回り、サン・ノゼ空港から日本に帰ってきた。僕が時間の予測が間違って、車をすっ飛ばして、ぎりぎりでアメリカンに乗った記憶がある。
<帰りのアメリカン>
このワークショップへの出席で、物理的に得たことがある。それは禁煙。乾燥したカリフォルニアでは、屋外での喫煙は厳禁だし、コンドも禁煙だった。出席を決めて、一日2箱くらい吸っていたタバコをあっさりやめた。
これが、アメリカへの最後の旅になった。
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